予備試験 令和8年 刑事実務基礎
問題文
次の【事例】を読んで、後記〔設問〕に答えなさい。
【事例】
1 H地方検察庁の検察官Pは、H県警察の司法警察員から、令和8年3月1日にH県I市内の路上においてV(当時27歳、男性)が被害に遭った殺人未遂被疑事件について、A(当時29歳、男性)の逮捕の可否を相談された。その時点までに収集・作成された主な証拠は以下のとおりであった。
⑴ 119番通報に関する捜査報告書(証拠①)
令和8年3月1日午後10時32分頃、W(当時65歳、男性)から、「つい先ほど、H県I市内の自宅近くの路上を西に向かって散歩していたところ、野球帽をかぶった男が前方(西)から走ってきて、すれ違いざまに、私に対し、『救急車を呼んでくれ。』と言い、そのまま東に走り去った。何だろうと思いながらそのまま西に50メートルほど歩いたところ、頭と右腕から血を流して倒れている男性を見付けた。周りに人が全くいなかったので、私が通報した。」旨の119番通報があったことが記載されている。
⑵ 救急隊員からの聴取結果に関する捜査報告書(証拠②)
救急隊員が前記 ⑴の119番通報を受けて現場に臨場し、頭部及び右腕から血を流し、意識を失って路上に倒れていた男性(V)を発見し、甲病院に救急搬送したことが記載されている。
⑶ 甲病院医師からの聴取結果に関する捜査報告書(証拠③)
Vは甲病院に救急搬送されてきた際、大量に出血しており、血圧及び意識レベルが低下し、直ちに救命措置を講じる必要がある状態であったこと、V の負った傷害はその後の診察及び検査の結果、全治まで約3か月間を要する頭部割創、右上腕部割創、右 上腕骨亀裂骨折であり、頭部割創は長さ約5センチメートル で頭蓋骨に達するもの、右上腕部割創は長さ約8センチメートル で上腕骨に達するものであったこと、医師らの救命措置によりVが一命を取り留め、意識が回復し、会話ができるようになったことが記載されている。
⑷ Vの司法警察員に対する供述調書①(証拠④)
「令和8年3月1日午後10時30分頃、 私が帰宅する途中、突然、後ろから誰かが走って近づいてくるような足音が聞こえ、振り返ったところ、野球帽をかぶってマスクを着けた人が、右手に持った大きな刃物のようなものを振り上げて きた。私は、とっさに避けようとしたが避けきれず、その刃物のようなもので頭をたたかれた。私は、体勢を崩して路上に座り込んだ。犯人は、路上に座り込んだ私の右横に立つと、刃物のようなものを犯人の頭より上に振り上げ、私の頭目掛けて思い切り振り下ろしてきた。私は、とっさに両腕を頭の上に上げて頭を守った。すると、犯人が振り下ろした刃物のようなものが私の右腕にもろに当たった。私は、『やめてください。お願いします。』と言ったが、ふらついてその場に倒れ込んでしまった。意識がもうろうとする中で犯人の方を見ると、犯人は刃物のようなものを持ったまま東に走り去った。私は、そのまま意識を失ってしまったようで、次に気付いたときには病院に搬送されてベッドに寝かされていた。現場は 、元々人通りが少ない場所で、当時も周りに人はおらず、誰かに助けを求めることはできなかった。
犯人は野球帽をかぶってマスクを着けていたので 、犯人の顔は見えなかった。犯人の 容姿は、黒っぽい野球帽をかぶってマスクを着けていたほか、上下黒っぽい服装で両手に白い軍手を着けており、黒っぽいリュックサックを背負っていた。 犯人の体格は、中肉中背だと思うが、座り込んだ姿勢から見上げる形で見たことから、よく分からない。」 旨記載されている。
⑸ コンビニエンスストア「乙」の防犯カメラ等に関する捜査報告書(証拠⑤)
警察官が現場西方約100メートルの位置にあるH県 I 市内のコンビニエンスストア「乙」
の防犯カメラ映像を確認するなどしたところ、黒色野球帽とマスク着用、上下黒っぽい服装で黒色リュックサックを背負った人物(顔は不鮮明)が西から現れて入店し、 令和8年3月1日午後10時23分頃、交通系ICカードを使用してたばこを購入する状況、同日午後10時26 分頃から約30秒間、赤色マスコットのストラップが付いたスマートフォンで通話している状況、同日午後10時28分頃、退店して東に立ち去る状況がそれぞれ録画されていることが記載されている。
⑹ 交通系ICカードに関する捜査報告書(証拠⑥)
前記⑸の人物がコンビニエンスストア「乙」でたばこの購入に使用した交通系ICカードの登録状況について警察官が捜査したところ、カードごとに割り振られる固有のID番号が判明したものの、登録者情報がない無記名のICカードであることが判明したことが記載されている。
⑺ 現場付近に遺留されたビニール袋に関する捜査報告書(証拠⑦)
令和8年3月1日 午後11時頃、警察官が現場付近の路上を探索した結果、路肩の草むらの中から、斧、マスク及び白い軍手が入ったビニール袋が発見され、これらが領置されたことが記載されている。
⑻ 斧(証拠⑧)
前記⑺で領置されたもの。刃体の長さ約10センチメートル、重量約1キログラム。刃体部分に血液様のものが付着している。
⑼ 斧に付着した血液様のものに関する鑑定書(証拠⑨)
証拠⑧の斧の刃体に付着したものが人血であり、そのDNA型がVのDNA型と一致する旨の鑑定結果が記載されている。
⑽ マスクに付着した微物に関する鑑定書(証拠⑩)
前記⑺のマスクの内側から採取した微物のDNA型が、警察において把握していたAのDNA型と一致する旨の鑑定結果が記載されている。
⑾ ビニール袋の指紋に関する鑑定書(証拠⑪)
前記⑺のビニール袋外側から採取した指紋が、警察において把握していたAの右手中指の指紋と一致する旨の鑑定結果が記載されている。
⑿ Vの司法警察員に対する供述調書②(証拠⑫)
「警察官から、Aという男性を知っているかと聞かれたが、その男性は、私の交際相手であるSの元交際相手で ある。Sは、最近、Aに付きまとわれていると話していたし、私も、1週間ぐらい前、帰宅途中に、私の自宅近くの路上に立っていたAらしき男から、じっとにらまれたことがあった。」旨記載されている。
⒀ 通話履歴に関する捜査報告書(証拠⑬)
警察官が携帯電話会社にA名義での契約を照会し、判明した携帯電話番号(以下「A名義携帯電話番号」という。)について通話明細の差押え等の捜査を実施した結果、 令和8年3月1日 午後10時26分から30秒間、A名義携帯電話番号からS名義の携帯電話番号に対する発信・通話の記録があり、その発信場 所がH県内であると判明したことが記載されている。
⒁ Sの司法警察員に対する供述調書(証拠⑭)
「私は、以前、Aと交際していたが、令和8年2月14日に交際関係を解消し、Vと交際するようになった。その後、Aは、私に付きまとうようになった。同年3月1日午後10時26分から30秒間、A名義携帯電話番号から私名義の携帯電話番号に電話がかかってきた記録があるとのことであるが、確かにその頃Aが私に電話をかけてきた。私は、本当は出たくなかったものの、無視して逆上されても怖いので電話に出たところ、Aから『改めて確認するけど、あの男と別れるつもりはないんだな。』と言われ、怖くなって何も答えずに電話を切った。コンビニエン スストア『乙』の防犯カメラ映像(証拠⑤)を見せてもらったが、映っている人物は野球帽とマスクを着けていて顔がよく見えないのでAかどうかは分からない。」旨記載されている。
2 H地方検察庁の検察官Pは、H県警察の司法警察員に対し、各証拠を総合すれば、Aの犯人性を推認することができることから、Aを殺人未遂及び銃砲刀剣類所持等取締法違反の事実で逮捕するのが相当であると伝えるとともに、A方の捜索差押えを実施することを指示した。その際、検察官Pは、H県警察の司法警察員に対し、仮にA方から交通系ICカード、スマートフォン が発見された場合には、 ㋐それらの発見場所・発見状況を写真撮影して証拠化すること、Aと同居しているAの実母から、発見場所の利用状況やA以外の者の出入りの有無・状況について聴取することを指示した。
H県警察の司法警察員は、その後、殺人未遂及び銃砲刀剣類所持等取締法違反の事実でAの逮捕状及びA方の捜索差押許可状の発付を受け、Aを逮捕するとともにA方の捜索を実施した。その後に得られた主な証拠は以下のとおりであった。
⑴ 捜索差押調書(証拠⑮)
警察官が、令和8年4月1日午前8時から、H県内のA方の捜索を実施したこと、Aと2人で居住するAの実母(59歳)が立会人であること、警察官が、Aの寝室から、交通系ICカード、前記1(5)の防犯カメラに映る人物が所持又は着用していたものとよく似た赤色マスコットのストラップが付いたスマートフォン、黒色野球帽、黒色ジャンパー、黒色ズボン及び黒色リュックサックを発見し、差し押さえたことが記載されている。
⑵ 交通系ICカードに関する捜査報告書(証拠⑯)
A方から押収した交通系ICカードの固有のID番号が、前記1 ⑸でコンビニエンスストア「乙」において使用されたものと一致したことが記載されている。
⑶ スマートフォンの解析結果に関する捜査報告書(証拠⑰)
A方から押収したスマートフォンの自局電話番号が、証拠⑬のA名義携帯電話番号と一致したこと、同スマートフォン端末に、令和8年3月1日午後10時26分、S名義の携帯電話番号に発信し、30秒間通話した記録があること等が記載されている。
⑷ Aの実母の司法警察員に対する供述調書(証拠⑱)
「私は、Aと2人暮らしをしている。Aの寝室はふだんからAだけが使っており、私が室内に入ること はない。3年ぐらい前に掃除のためAの寝室に入ったところ、Aから『部屋に入るな。』とすごい剣幕で怒鳴られたことがあり、それ以来、Aの寝室に入っていない。Aは友人が少なく来客はないので、Aの寝室に入る人はA以外にはいない。」 旨記載されている。
⑸ Aの司法警察員に対する供述調書(証拠⑲)
「私からSを奪ったVのことが憎く、Vに痛い思いをさせてやろうと考え、令和8年3月1日夜、斧を持ってVの自宅近くに向かった。V方近くのコンビニエンスストア 『乙』
に立ち寄ったときに、Sに電話をかけて、Vと別れる気がないのか尋ねたが 、Sは何も答えなかった。その後、Vの自宅近くに向かったところ、すぐにVが現れたので、斧で切り付けてVにけがをさせたことに間違いない。しかし、Vを殺すつもりはなかった。私が斧でVを切り付けた後、Vは、流血で真っ赤になった顔で、『やめてください。お願いです。』と言いながらその場に倒れ込み、動かなくなった。Vが倒れ込んですぐにVの体の下の血だまりがどんどん大きくなっていった。私は、その様子を見て、一気に冷静になると同時にとんでもないことをしてしまったと後悔し、Vをそのままにしてその場から立ち去ったが、偶然通行人と すれ違ったので、その通行人に119番通報を依頼した。」 旨記載されている。
⑹ Aの検察官に対する供述調書(証拠⑳)
証拠⑲と同旨。
⑺ Vの検察官に対する供述調書(証拠㉑)
証拠④⑫と同旨。
⑻ 法医学者の検察官に対する供述調書(証拠㉒)
「Vの右上腕部割創・右上腕骨亀裂骨折の傷害は、斧(証拠⑧)により生じたものとして矛盾しない。これらの傷害が この斧により生じたとすれば、かなりの強さで斧をたたき付けるなどしたものと推測される。その強さで頭部に この斧をたたき付ければ、頭蓋骨骨折・脳挫傷等により相手方を死亡させる危険性が高い。Vの頭部割創の傷は、 この斧をたたき付けられた際に避けようとして避けきれずにできたものと考えて矛盾しない。Vの右上腕部割創・右上腕骨亀裂骨折の傷害は1回の打撃により生じ、頭部割創はこれとは別の1回の打撃により生じたものと考えて矛盾しない。Vの右上腕部の割創は、右上腕部を通る太い動脈である上腕動脈を損傷するもので、出血量も相当多かったはずである。被害後速やかに救急搬送されて救命措置が講じられたため一命を取り 留めたが、放置されていれば、Vはほぼ確実に失血死していた。」旨記載されている。
3 ㋑検察官Pは、Aにつき、「被告人は、令和8年3月1日午後10時30分頃、H県I市内の路上において、V(当時27歳)に対し、殺意をもって、持っていた斧(刃体の長さ約10センチメートル、重量約1キログラム)を頭部目掛けて2回たたき付けたが、同人に全治まで約3か月間を要する頭部割創、右上腕部割創及び右上腕骨亀裂骨折の傷害を負わせたにとどまり、その目的を遂げなかったものである。」との殺人未遂の公訴事実及び銃砲刀剣類所持等取締法違反の公訴事実で公判請求した。
H地方裁判所は、Aに対する殺人未遂等被告事件を公判前整理手続に付した。検察官Pは、証拠①から③まで、⑤から⑪まで、⑬から㉒までの証拠調べを請求した。 ㋒Aの弁護人Bは、Aと接見し、Aの主張が証拠⑲の供述内容のとおりであったことから、「証拠㉑及び㉒は不同意、その余の書証は同意、証拠物は異議なし」との証拠意見を述べた 上、「Aが本件の犯人であること及びVに対して斧で切り付けて傷害を負わせたことは争わないが、Aに殺意はなく、傷害罪が成立するにとどまる。」旨の予定主張記載書面を提出した。
㋓検察官Pは、本件について中止犯 は成立しないと考えていた ため、証明予定事実記載書に中止犯の成否に関する事実を記載しておらず、弁護人Bも同事実に関する主張をしていなかったが、㋔裁判所は、本件では中止犯の成否が問題となり得ると考えた。
4 検察官Pは、Vの証人尋問を請求するに当たり、Vと打合せをしたところ、Vが「今回の事件について、私の氏名までは報道されなかったものの、男女関係のトラブルに起因する事件であるなどと週刊誌で大きく報道されたこともあり、気分が塞ぎ込むようになり、今でも眠れないときがある。今回の裁判で傍聴人の好奇の目にさらされ、イン ターネット上に私の氏名や容貌を書き込まれるなどして日常生活に支障が生じるのが怖いので、 ㋕私の氏名を裁判の場で明らかにしてほしくないし、私の姿を傍聴人に見られたくない。 」旨の要望を述べた。
〔設問1〕
⑴ 検察官Pが下線部㋐の指示をした理由を答えなさい。
⑵ 検察官Pは、下線部㋑のとおり公判請求する時点において、Aの犯人性を推認する事実として、Aの供述を除いても、 事実1「Aが犯行直後に凶器や所持品を現場付近に投棄した事実」のほかに、 事実2「Aが犯行直前に犯行現場付近にいた事実」を認定することができると考えた。検察官Pが事実 2を認定することができると考えるに至った推認過程について、具体的な証拠を指摘しつつ答えなさい。
〔設問2〕
弁護人Bが、下線部㋒のとおり証拠意見を述べたもののうち、証拠㉑及び㉒につき不同意、証拠⑦、⑩及び⑪につき同意として、証拠意見を異にした理由を答えなさい。
〔設問3〕
⑴ 検察官Pが下線部㋓のとおり中止犯が成立しないと考えた理由について、具体的事実関係に即して答えなさい。
⑵ 裁判所は、下線部㋔のとおり中止犯の成否 が問題となり得ると考えた場合、どのような対応を採るべきか答えなさい。
〔設問4〕
検察官Pは、下線部㋕のVの要望を踏まえ、どのような手段を採り得るか、条文上の根拠を示しつつ答えなさい。
〔設問5〕
弁護人BがVと示談の交渉をしたところ、Vは、示談金100万円であれば示談に応じても構わないと述べた。弁護人Bは、これを踏まえてAと接見したところ、Aから「親族にも頼み込んで90万円までは何とか準備できたが、どうしてもあと10万円足りないので貸してもらえないか。」と頼まれた。この場合、弁護人BがAに10万円を貸 すことについて弁護士倫理上どのような問題があるか、司法試験予備試験用法文中の弁護士職務基本規程を適宜参照して答えなさい。
参考答案AI生成(出題の趣旨と論証集をもとに作成した目安です)
第1 設問1
1 小問(1)
指示の時点における犯人性の立証構造は次のとおりである。犯行直前、現場西方約100メートルのコンビニエンスストア乙にいた黒色野球帽・マスク・上下黒っぽい服装・黒色リュックサックの人物(証拠⑤)は、Vが供述する犯人の服装(証拠④)と一致し、犯行時刻の2分前に退店して現場方向である東に立ち去っているから、犯人である蓋然性が高い。その人物は、固有のID番号が判明した交通系ICカード(証拠⑥)と赤色マスコットのストラップが付いたスマートフォンを使用し、その通話の時刻と時間は、A名義携帯電話番号からS名義番号への発信記録(証拠⑬)と一致する。したがって、A方からこれらと同一のICカードやスマートフォンが発見されれば、乙にいた人物の所持品をAが所持していたことになり、その人物がAであることを強く推認させる。もっとも、この推認は、発見された物がA自身の所持品であり、同居の実母や他人が持ち込んだ物、家族と共用の物ではないことを前提とする。ICカードは無記名で登録者を特定できず、スマートフォンもA名義という契約上の帰属が分かるにとどまるから、現に誰が使用していたかは物の発見状況によって裏付ける必要がある。また、指示の時点でAはまだ取調べを受けておらず、逮捕後に「自分の物ではない」「誰かが置いた」「家族も使っていた」と弁解することが予想される。そこで、発見場所・発見状況を写真撮影して、Aの居室内のどこにどのような状態で保管されていたかを客観的に記録し、立会人である実母から、発見場所がAのみが使用する場所か、A以外の者の出入りがあるかを聴取することにより、発見物がAの排他的支配下にあったこと、すなわちAの所持品であることを裏付け、上記の推認を確実なものにするために指示したものである。実母は親族として公判で証言を拒絶し得る立場にあり(刑訴法147条)、Aの影響で供述を変える可能性もあるから、捜索と同時に聴取しておく必要があった。
2 小問(2)
(1) 犯行直前に現場付近にいた人物
証拠⑤によれば、犯行時刻である令和8年3月1日午後10時30分頃の直前、現場西方約100メートルの乙に、黒色野球帽とマスクを着け、上下黒っぽい服装で黒色リュックサックを背負った人物が西から現れて入店し、午後10時23分頃に交通系ICカードでたばこを購入し、同26分頃から約30秒間、赤色マスコットのストラップが付いたスマートフォンで通話し、同28分頃に退店して東に立ち去った。顔は不鮮明で、Sも映像からはAかどうか分からないと供述している(証拠⑭)から、この人物がAであることは、容貌ではなく、所持品と通話の記録から推認することになる。
(2) この人物とAとの結び付き
ア ICカード。証拠⑥により乙で使用されたICカードの固有ID番号が判明し、証拠⑯により、Aの寝室から押収されたICカード(証拠⑮)のID番号がこれと一致した。ID番号はカードごとに割り振られるから、乙で使用されたカードそのものがAの寝室にあった。
イ スマートフォン。証拠⑬により、A名義携帯電話番号から同日午後10時26分にS名義の番号に発信し30秒間通話した記録があり、発信場所はH県内であった。これは証拠⑤の人物が通話した時刻及び時間と正確に一致する。証拠⑰により、Aの寝室から押収されたスマートフォンの自局番号はA名義番号と一致し、同端末にも同一の発信記録が残っている。しかも、証拠⑮によれば、同端末には防犯カメラの人物が使用していたものとよく似た赤色マスコットのストラップが付いていた。よって、乙で通話していた人物が使用したスマートフォンもAの寝室にあった。
ウ 通話相手の供述。証拠⑭によれば、Sは、その時刻に確かにAから電話があり、Aが「改めて確認するけど、あの男と別れるつもりはないんだな」と言ったと供述する。Sは令和8年2月14日までAと交際していた者であり、声でAを識別できる上、発言内容は、SがAと別れてVと交際していること(証拠⑫⑭)を知りこれに執着する者にしか言えないものであるから、この供述は信用でき、通話の主はA本人であった。
エ 発見場所の排他性。証拠⑮⑱によれば、ICカードとスマートフォンの発見場所はAの寝室であり、実母は3年前に叱責されて以来立ち入らず、Aには来客もないから、寝室はAのみが使用する排他的空間である。同室からは、防犯カメラの人物の着衣と同種の黒色野球帽、黒色ジャンパー、黒色ズボン及び黒色リュックサックも発見されている。したがって、両物件はAの所持品であり、当日に他人がこれらを持ち出して使用し寝室に戻したという可能性は、ウのSの供述と併せて排斥される。
(3) 結論
以上から、乙で午後10時23分から28分までICカードとスマートフォンを使用していた人物はAであり、Aは犯行の2分前まで現場から約100メートルの地点におり、現場方向に向かって立ち去ったことが認定できる。すなわち事実2が認定でき、これは、事実1及び証拠⑫⑭が示す動機(Sとの交際解消、Sへの付きまとい、約1週間前のV宅付近での睨視)と相まって、Aの犯人性を推認する有力な間接事実となる。
第2 設問2
1 Aは、証拠⑲のとおり、自らが犯人であることと斧でVに切り付けて傷害を負わせたことを認め、殺意のみを否認している。弁護人Bは、被告人の意思を尊重し(弁護士職務基本規程22条1項、46条)、争点を殺意の有無に絞る方針を採った。書証に対する同意(刑訴法326条1項)は、伝聞証拠に証拠能力を付与し、原供述者に対する反対尋問の機会を放棄するものであるから、弁護人は、争点との関係で反対尋問により内容を吟味する必要があるか否かによって証拠意見を使い分けたものである。
2 証拠⑦⑩⑪は、現場付近の草むらから斧・マスク・白い軍手入りのビニール袋が発見された状況、マスク内側の微物のDNA型がAのDNA型と一致したこと、ビニール袋外側の指紋がAの右手中指の指紋と一致したことを内容とし、いずれもAの犯人性と凶器の投棄に関する証拠である。Aが犯人性を争わない以上、反対尋問によって内容を吟味する利益はない。しかも、捜査報告書や鑑定書は、不同意としても、作成者の証人尋問により真正に作成されたことが証明されれば証拠能力が認められ(321条3項、4項)、鑑定結果が覆る見込みもないから、不同意は審理を遅延させるだけであり、争わない事実を無用に争う態度は、公判前整理手続の趣旨に反し、情状にも不利に働きかねない。よって同意した。
3 証拠㉑はVの検察官面前調書であり、犯人が後ろから走り寄って刃物で頭をたたき、座り込んだVの右横に立ち、刃物を頭より上に振り上げてVの頭を目掛けて思い切り振り下ろし、頭を守った右腕に当たったという犯行態様の供述を含む。頭部という身体の枢要部を狙った強度の攻撃が2回あったことは、殺意を推認させる核心的な事実である。しかし、Vは、突然の襲撃を受け、座り込んで見上げる姿勢で、意識がもうろうとする中で知覚したのであるから、2回目の攻撃が頭を狙ったものか、振り上げの高さや力の強さ、回数についての知覚・記憶の正確性を反対尋問で吟味する必要がある。同旨の証拠④⑫には同意しているが、㉑を不同意とすれば、321条1項2号の要件が容易に満たされない以上、検察官はVの証人尋問を請求せざるを得ず、公判廷での証言を反対尋問によって検証する機会が得られる。
4 証拠㉒は法医学者の検察官面前調書であり、傷害が斧によるかなりの強さの打撃で生じたこと、同じ強さで頭部をたたけば死亡の危険性が高いこと、放置すればほぼ確実に失血死したことなど、行為の危険性に関する専門的意見を内容とする。行為の客観的危険性の高さは、Aが死の結果を認識・認容していたことを推認させる最も重要な間接事実である。しかし、打撃の強さの推定根拠、頭部割創は回避動作によって生じたもので腕を狙った打撃とも矛盾しないのではないか、各打撃の順序と部位など、意見の前提と推論過程を反対尋問で確かめる必要がある。よって不同意とした。
第3 設問3
1 小問(1)
中止犯(刑法43条ただし書)が成立するには、実行に着手した後、自己の意思により犯罪を中止したことを要する。実行行為が終了し、結果発生の現実的危険が生じている場合(実行未遂)には、単に行為をやめるだけでは足りず、結果の発生を防止するために真摯な努力をしたことが必要である。本件では、Aは、重さ約1キログラムの斧でVの頭部と右腕を2回にわたり強打し、Vは、上腕動脈を損傷して大量に出血し、意識を失って路上に倒れ、放置されればほぼ確実に失血死する状態にあった(証拠③㉒)。実行行為は終了し、死の結果発生の危険が現実化していたから、中止犯の成立には真摯な救命の努力が必要である。しかし、Aは、Vが血だまりの中で動かなくなったのを見て、Vをそのままにして現場から立ち去った。現場は人通りの少ない場所で当時周囲に人はおらず(証拠①④)、放置すればVが発見されない危険が大きかった上、Aは乙でSに電話をかけていたとおりスマートフォンを携帯していたから、自ら119番通報することは容易であったのに、これをしていない。偶然すれ違ったWに「救急車を呼んでくれ」と言っただけで、Vの所在、負傷の内容、自分が加害者であることも告げずにそのまま東に走り去っており、Wは「何だろうと思いながら」歩いてたまたま50メートル先でVを発見したにすぎない。さらに、Aは、斧、マスク及び軍手をビニール袋に入れて現場付近の草むらに捨てている(証拠⑦)のであり、救命よりも逃走と証拠隠滅を優先していた。Vの救命はWの発見と通報、救急隊及び医師の措置によるものであり、Aの行為は、結果防止に向けた真摯な努力とは到底評価できない。また、Aが攻撃をやめた理由は、Vの流血と広がる血だまりを見て「一気に冷静になった」というものであり、流血に驚愕して犯行継続を断念した場合(最決昭32年9月10日参照)に準じ、任意性にも疑問がある。以上から、検察官Pは中止犯が成立しないと考えた。
2 小問(2)
中止犯は刑の必要的減免事由であって訴因の変更を要する事項ではなく、当事者の主張がなくても裁判所が認定し得る。しかし、本件は殺人未遂であり、裁判員裁判の対象事件として必要的に公判前整理手続に付されており、同手続は争点及び証拠を整理して充実した審理を計画的に行うための手続であるから(刑訴法316条の2第1項)、当事者が主張していない事項を裁判所が判決で突然判断することは、当事者に対する不意打ちとなる。そこで裁判所は、公判前整理手続において、検察官Pに対し、中止犯の成否に関する事実、すなわちAが立ち去った経緯、Wへの依頼の状況、Aの心理状態について証明予定事実を追加するよう求め(316条の21第1項参照)、弁護人Bに対し、殺意を争う主張に加えて中止犯を主張する意思があるかを明らかにするよう釈明を求め(316条の5第3号、規則208条1項)、両当事者に対し、Wの証人尋問やAの供述等、中止犯の成否に関する証拠の請求を促すべきである。その上で、中止犯の成否を争点として整理し、公判前整理手続の結果を確認して(316条の24)、公判で審理する。公判前整理手続終了後は証拠調べ請求が制限される(316条の32)から、この段階で争点化しておくことが重要である。公判段階で判断が必要となった場合には、職権で証拠調べをし(298条2項)、当事者に意見を述べる機会を与えた上で判断すべきである。
第4 設問4
1 氏名を明らかにしないこと
本件は性犯罪ではないが、男女関係のトラブルに起因する事件として週刊誌で大きく報道されており、Vは、現に不眠の症状があり、氏名等が公開の法廷で明らかにされれば、傍聴人の好奇の目にさらされ、インターネット上に氏名や容貌を書き込まれるなどして日常生活に支障が生じることを恐れている。これは「犯行の態様、被害の状況その他の事情により、被害者特定事項が公開の法廷で明らかにされることにより被害者等の名誉又は社会生活の平穏が著しく害されるおそれがある」事件(刑訴法290条の2第1項3号)に当たる。そこで、検察官Pは、Vから被害者特定事項の秘匿の申出を受け、これに意見を付して裁判所に通知し(同条2項)、被告人又は弁護人の意見を聴いた上での秘匿決定を求める。決定がされれば、起訴状の朗読は被害者特定事項を明らかにしない方法で行われ(291条2項)、証拠書類の朗読(305条3項)及び訴訟関係人の尋問・陳述(295条3項)においても被害者特定事項の秘匿が図られる。
2 姿を傍聴人に見られないこと
Vの証人尋問に際し、検察官Pは、犯罪の性質、証人の心身の状態、名誉に対する影響等の事情を明らかにして、傍聴人と証人との間で相互に相手の状態を認識することができないようにする遮へい措置(157条の5第2項)を請求する。さらに、Vが法廷で証言するときは圧迫を受け精神の平穏を著しく害されるおそれがあると認められるときは、映像と音声の送受信により証人を尋問するビデオリンク方式(157条の6第1項3号)を請求することができる。また、加害者であるAとの対面による不安を緩和するため、Aとの間の遮へい措置(157条の5第1項)や付添い(157条の4第1項)も併せて検討する。これらの措置は、公判前整理手続において尋問方法として協議しておくべきである。
第5 設問5
1 弁護士職務基本規程25条は、弁護士は、特別の事情がない限り、依頼者と金銭の貸借をしてはならないと定める。弁護士が依頼者の債権者になれば、自己の債権回収という利害が生じ、依頼者の利益のみを考慮して職務を行うべき弁護士の自由と独立(規程20条)が損なわれ、貸借をめぐる紛争により依頼者との信頼関係が害され、ひいては弁護士の品位と信用(規程6条)を損なうおそれがあるからである。
2 本件で弁護人BがAに10万円を貸すことは、まさに依頼者との金銭貸借に当たる。示談の成立はAの量刑上の利益であり、Aは親族にも頼み込んで90万円を準備し、あと10万円が足りないだけであるから、依頼者の利益のためのやむを得ない少額の貸与として「特別の事情」が認められる余地はある。しかし、弁護人が貸主となれば、Aが返済できない場合に弁護人が依頼者に対して債権を行使する事態が生じ、執行猶予の獲得などに関する弁護活動の判断に自己の回収可能性という利害が混入するおそれがある。さらに、示談金の一部を弁護人が事実上負担した場合、被害弁償が被告人自身の反省と努力によるものとして裁判所に評価されることになるから、資金の出所を伏せ、又は親族の援助と偽って情状として主張すれば、裁判所の量刑判断を誤らせ、信義誠実義務(規程5条)に反し、虚偽と知りながら証拠を提出する行為(規程74条)にも当たり得る。返済を免除すれば依頼者への経済的利益の供与となり、同様の問題を生じる。
3 したがって、弁護人Bは安易に貸与すべきではなく、まずVとの間で90万円を即時に支払い残額10万円を分割払いとする示談条件を交渉し、又はAの親族等からの追加調達を試みるべきである。それでもなお貸与するのであれば、Aの自由な意思に基づくことを確認し、貸借の条件を書面で明確にし、返済をめぐって弁護活動の独立性が害されないよう配慮するとともに、裁判所に対して資金の出所を偽らないことが必要である。