予備試験 平成23年 刑事実務基礎
問題文
[刑 事]
次の記述を読んで,後記の設問に答えなさい。
1【事案】
乙(男性,30歳,会社員)は,平成23年3月5日午後2時10分頃(以下,同日),会議出張のためA駅のホームのベンチに座って,午後2時45分発の特急電車の到着を待っていた。
このとき乙は,会議に必要な書類などを入れた黒いキャリーバッグ(B社製,外側ポケット部分に金色の「B」のロゴが入っているもの)を持っており,キャリーバッグの外側ポケットに携帯電話を入れていた。そのうち,乙は,少し暑く感じたので,着ていたコートを脱ぎ,ベンチの背もたれに掛けた(位置関係については,別紙「見取図1」のとおり。)
乙が電車を待っている間,一人の男が,時折乙の方をうかがうような目つきをしながらホームをうろついていた。その男は,白髪,身長約180センチメートルで紺色のスーツを着ており,手ぶらであったが,乙とその男の間は約3メートル離れていたので,乙の目から見て,男の着ている紺色のスーツの生地が無地か柄物かは分からなかった。乙はその男と何回か目が合ったものの,男が乙に話しかけてくる様子もなかった。午後2時10分以降,ホームには何本かの電車が到着したが,紺色のスーツを着た男はいずれの電車にも乗ろうとせず,ただホームをうろつくだけであった。
午後2時25分頃,乙は,新聞や飲み物を購入しようと思い立ち,キャリーバッグをホームのベンチに残したまま,ホームの中央部分にある売店まで歩いて行き,新聞等を購入した。乙のいたベンチから売店までは,約15メートルの距離であった。売店は客で混み合っていたため,乙は新聞等を買うのに順番待ちで約5分かかった。
乙は,買い物を終えた時,偶然そこにいた友人丙に声をかけられた。乙は,久しぶりに丙と出会ったことで丙との話に夢中になり,一瞬キャリーバッグのことを忘れて,丙と共に,キャリーバッグを置いたベンチとは反対方向に約5メートル歩いたところで,すぐにキャリーバッグのことを思い出してベンチの方向を振り返った。このとき,乙は,ベンチのそばに自分のキャリーバッグが見当たらないことに気付き,慌てて,丙に別れを告げてベンチに駆け戻ったが,ベンチの背もたれにコートだけが残っており,キャリーバッグはなくなっていた。
乙はベンチの周囲を探したり,ホームの端から端まで走ったりしてキャリーバッグを探したが,どこにもなかったことから,誰かがキャリーバッグを持ち去ったに違いないと思い,ホームの階段を下りて,改札口の方へ走って行ってみた。乙は,改札口に向かう途中で,何人かの乗客が黒いキャリーバッグを持っていたのを見たが,いずれも金色の「B」のロゴが入ったものではなかった。
そうしたところ,乙は,改札口の手前,乙の前方数メートルの地点に,金色の「B」のロゴが入った黒いキャリーバッグを引いている男を発見した。その男は,白髪で身長約180センチメートル,紺色の生地で細い縦じま模様のあるスーツを着ていた。乙は,走ってその男に追いつき,男の背後から「おい,待て。」と声を掛けた。男は一瞬立ち止まり,振り返って乙を見たが,その途端に,それまで引いていたキャリーバッグを持ち上げ,走り出そうとする仕草を見せた。そこで,乙が,男が持っているキャリーバッグに手を掛けて「待て泥棒。そのキャリーバッグは,俺のだぞ。」と言うと,男は「何の証拠があってそんなことを言うんだ。」と言い返してきた。
このため乙は「お前は,さっき,ホームで俺の様子を見てただろう。そのキャリーバッグの中,身を開けてみろ。俺の書類が入っているに違いない。」と言ったが,男は「何の権限があってキャリーバッグを開けろなどと言うのだ。俺は急いでいるから手を離せ。」と言って,乙にキャリーバッグを渡そうとしなかった。このように二人が口論していたところ,午後2時40分頃,A駅構内を主なパトロール場所としている警察官丁が通り掛かった。丁が,二人の大声を聞いて,「どうしたのですか。」と乙らに問いかけると,乙が「この男が私のキャリーバッグを盗んで持ち去ろうとしていたのです。」と答え,これを聞いた男は怒った口調で「何だと。これがあんたの物だという証拠もないのに,他人を泥棒呼ばわりするのか。」と乙に言った。丁は,「まあまあ落ち着いて。」と二人をなだめながら,乙に「このキャリーバッグがあなたの物だという証拠でもあるのですか。」と尋ねた。これに対し,乙が「あ,そうでした。キャリーバッグの外側のポケットに私の携帯電話が入っているはずです。興奮していて携帯電話のことをすっかり忘れていました。」と言ったので,丁が,自分の携帯電話を取り出して,乙に対し「では,あなたの携帯電話の番号を言ってください。」と言って,乙から聞いた携帯電話の番号に電話をかけてみたところ,男が持っていたキャリーバッグの外側ポケット内から携帯電話の着信音が鳴り始めた。これを聞いて乙が「ほら,やっぱり俺のキャリーバッグじゃないか。」と男に言うと,男は「俺は,このキャリーバッグが誰かの忘れ物だと思ったから,駅の事務室まで届けに行こうとしていたところだ。あんたの物なら返すよ。」と言い出した。これに対して乙が「おかしいぞ。さっきまでそんなことは言っていなかったじゃないか。」と言うと,丁が,乙と男に対し「ここでは周りの人の迷惑になりますから,ちょっとそこの事務室でお話を聞かせてください。」と言って,二人をA駅の事務室まで連れて行った(改札口付近の位置関係については,別紙「見取図2」のとおり。)
丁は,駅事務室において,男の事情聴取をした。このとき男は「キャリーバッグは誰かの忘れ物だと思って,駅の事務室まで届けに行こうとしていただけだ。」などと話し,その際の男の話から,男の氏名が「甲」であること,住居不定,無職であることが分かった。また,丁が甲の前歴を照会したところ,甲には窃盗罪(置き引き)の前科が2犯あり,そのうち最近の前科については,現在,執行猶予期間中であることが分かった。
更に丁が,駅員の協力を得てホーム上に3台設置されている防犯カメラの画像を確認したところ,下記のとおりの画像が映っていた(3台の防犯カメラが撮影した画像は1台のモニター画面に映されていて,5分間隔で切り替わるようになっていた。)
そこで丁は,乙に被害届を出す意思があることを確認した上,午後3時30分,甲を窃盗の事実で緊急逮捕した。
2【各防犯カメラの画像】
[平成23年3月5日午後1時5分からの防犯カメラ1の画像(以下,同日)]
ホームに到着した電車から降りた十数名の乗客が一斉に改札口に向かってホームの階段を下りて行く中で,同じ電車から降りてきた乗客の一人がホームに残った。その乗客は紺色のスーツを着た白髪の男性であること,また,手荷物を一切持っていないことが画面から判別できたが,スーツの生地に細いしま模様があるか否かは画面から判別できず,顔つきも身長も判別できなかった。その男は,ホームをうろつき,特急を含む何本もの電車が発着を繰り返しているにもかかわらず,そのいずれにも乗ろうとしなかった。
[午後2時10分からの防犯カメラ2の画像]
乙と思われる男が,キャリーバッグを持ってホームにあるベンチに近づき,ベンチの前で着ていたコートを脱いでベンチの背もたれに掛け,キャリーバッグをベンチの傍らに置いた。紺色のスーツを着た別の男が,乙の前を何回か往復している。
[午後2時25分からの防犯カメラ3の画像]
ホームの売店に一人の男が近づいてきて,数分間順番待ちをして,新聞等を購入した後,別の男と話を始め,その男と共に売店から離れてベンチとは反対方向に数メートル歩いて行ったが,すぐに引き返して,ベンチの方向に走って行った。
なお,防犯カメラの時計は時報とほとんど誤差はないことが確認されている。キャリーバッグがいつの時点でベンチからなくなったのかは,モニターが切り替わって他のカメラの画像を映していたため,画面からは確認できなかった。
3【甲の逮捕後の捜査で判明した事実】
① 甲の所持品の中に,改札済みの「B駅→A駅」の乗車券が1枚あった(B駅はA駅の隣駅である。切符に印字されたB駅での購入時刻は,3月5日午後0時55分であった。)
② AB両駅間の電車の所要時間は約3分である。
4【逮捕後の甲の弁解内容】
「午後2時過ぎ頃にA駅に着いて,すぐにベンチにキャリーバッグが置かれているのに気付き,忘れ物に違いないと思って,親切心から駅の事務室に持って行こうとしたのです。そうしたところ,知らない男からいきなり泥棒呼ばわりされ,キャリーバッグを奪われそうになったため腹が立ち,しかも,この男のキャリーバッグだという証拠もありませんでしたから,その男にキャリーバッグを渡しませんでした。しかし,駆けつけてきた警察官が,男の携帯電話の番号に電話をかけたところ,その男のキャリーバッグだと分かったので,素直にキャリーバッグを渡したのです。ですから,キャリーバッグは盗んでいませんし,盗む気もありませんでした。」
〔設問〕上記の1ないし3の各事実が裁判所において証拠上認定できることを前提とし,上記4の弁解内容を考慮して,甲に対する窃盗罪の成否に関する以下の各設問に答えよ。
1 甲が,キャリーバッグをベンチから持ち去った人物であることを認定できるか否かについて,事実を摘示して説明せよ。
2 キャリーバッグに対する乙の占有の有無及び甲の窃盗の故意の有無について,判例の立場に立って,それぞれ事実を摘示して説明せよ。
別紙見取図1 改札口 階段 ホーム ベンチ コート キャリーバッグ 販売口 商品 売店
別紙見取図2 改札口 駅事務室 入口 乙が男に追いついた位置 階段 ホーム
出題の趣旨
法務省が公表した出題の趣旨です。
本問は,駅のホームで起こったキャリーバッグの置き引き事案について,具体的な事実に即して,窃盗罪の構成要件該当性と混同することなく甲の犯人性を検討できるか,被害者乙のキャリーバッグに関する占有の事実及び占有の意思の有無を検討できるか,甲の弁解に沿う事実に留意しつつ,甲の窃盗の故意の有無を検討して妥当な結論を導くことができるか,という基本的な実務能力を問うものである。
参考答案AI生成(出題の趣旨と論証集をもとに作成した目安です)
第1 設問1 甲の犯人性
1 キャリーバッグがベンチから持ち去られる場面を目撃した者はなく、防犯カメラの画像もモニターが切り替わっていたためその瞬間を捉えていない。したがって、甲の犯人性を直接証明する証拠はなく、間接事実からの推認によるほかない。
2(1)まず、甲は被害品を所持していた。乙が改札口手前で発見した男は、金色の「B」のロゴが入った黒いキャリーバッグを引いていた。そして、丁が乙から聞いた携帯電話の番号に電話をかけたところ、甲が引いていたキャリーバッグの外側ポケットから着信音が鳴ったのであるから、甲が所持していたキャリーバッグは、乙が外側ポケットに携帯電話を入れてベンチの傍らに置いていた乙所有のキャリーバッグそのものである。
(2)次に、その所持は被害の発生に時間的・場所的に極めて近接している。乙がベンチを離れたのは午後2時25分頃であり、売店での順番待ちに約5分を要し、丙と話して約5メートル歩いた後にすぐ振り返っているから、乙が盗難に気付いたのは遅くとも午後2時35分頃である。そして丁が二人を発見したのは午後2時40分頃であって、その場所はベンチから約15メートル先の売店を経て階段を下りた改札口の手前にすぎない。被害発生から数分以内に、現場から至近の地点で甲が被害品を所持していたことになる。
(3)さらに、甲の駅ホームにおける滞留状況は置き引きの機会をうかがう行為としか説明できない。防犯カメラ1の画像によれば、午後1時5分頃に電車から降りた紺色のスーツの白髪の男が、手荷物を一切持たずにホームに残り、特急を含む何本もの電車の発着を繰り返すのにそのいずれにも乗ろうとせずホームをうろついていた。甲の所持品中には午後0時55分にB駅で購入された改札済みの「B駅→A駅」の乗車券があり、AB間の所要時間は約3分であるから、甲が午後1時頃にA駅に到着したことと一致する。甲は白髪、身長約180センチメートル、紺色のスーツという画像上の特徴とも合致するから、この男は甲である。そうすると、甲は約1時間20分もの間、手荷物も持たず乗車する電車もないままホームに滞留していたことになる。
(4)加えて、防犯カメラ2の画像によれば、乙がキャリーバッグをベンチの傍らに置きコートを背もたれに掛けた後、紺色のスーツを着た男が乙の前を何回か往復している。乙も、男が時折自分の方をうかがう目つきをしていたと述べており、甲が乙とそのキャリーバッグに狙いを定めていたことが推認される。
(5)そして、甲は乙に「待て泥棒」と声を掛けられた途端、キャリーバッグを持ち上げて走り出そうとする仕草を見せている。これは追及を免れようとする行動であり、犯人でなければ説明が困難である。また、甲の「午後2時過ぎ頃にA駅に着いた」という弁解は上記(3)の乗車券及び防犯カメラ1の画像と明らかに矛盾し、虚偽である。虚偽の弁解をしていること自体、甲が犯人であることを推認させる。
3 なお、甲には窃盗(置き引き)の前科2犯があるが、前科に係る事実は被告人の犯罪性向という実証的根拠の乏しい人格的評価を介して犯人性を推認させるおそれがあるから、手口に顕著な特徴の類似がない限り犯人性の立証に用いることは許されない。本件では甲の犯人性の認定に前科を用いるべきではない。
4 以上の間接事実を総合すれば、甲がキャリーバッグをベンチから持ち去った人物であると認定できる。
第2 設問2
1 乙の占有の有無
(1)窃盗罪(刑法235条)の客体は他人の占有する財物である。財物の占有の有無は、財物に対する事実上の支配、すなわち占有の事実と占有の意思とを総合し、社会通念に従って判断する。被害者が財物を置いて一時その場を離れた場合であっても、被害者と財物との時間的・場所的近接性、財物の形状及び性質、現場の状況等に照らし、なお被害者の支配が及んでいると認められるときは、占有は失われない。判例も、被害者がベンチにポシェットを置き忘れ、約27メートル離れた時点で約2分を経過していた事案につき、被害者の占有を肯定している(最二決平16.8.25)。
(2)本件では、乙はキャリーバッグをベンチの傍らに置いたまま売店に向かったが、ベンチから売店までは約15メートルの距離にすぎず、乙は同じホーム上にとどまっていた。離れていた時間も、順番待ちの約5分と丙との会話を含めて10分程度である。また、乙はベンチの背もたれに自分のコートを掛けたままにしており、そこに戻ることを客観的に示していた。
さらに、キャリーバッグには会議に必要な書類が、外側ポケットには携帯電話が入っており、乙がこれを重要な物として管理する意思を有していたことは明らかである。乙は丙に声を掛けられて一瞬キャリーバッグのことを忘れたが、反対方向に約5メートル歩いたところですぐに思い出して振り返っているのであって、占有の意思を放棄したものではない。
(3)したがって、乙の事実上の支配はキャリーバッグに及んでおり、その占有は失われていない。本件キャリーバッグは「他人の財物」に当たる。
2 甲の窃盗の故意
(1)窃盗の故意としては、財物が他人の占有に属することの認識及びその占有を排除して自己又は第三者の占有に移すことの認識が必要である。占有は規範的要素を含む概念であるから、その認識としては、占有を基礎づける事実を認識していれば足りる。甲は忘れ物だと思ったと弁解するから、この点が問題となる。
(2)本件では、甲は午後2時10分頃から乙の前を何回か往復し、乙の様子をうかがっていたのであるから、乙がキャリーバッグをベンチの傍らに置き、コートを背もたれに掛けた上で売店に向かうという一連の状況を現に見ていたと認められる。ベンチの背もたれに所有者のコートが残されている状況からすれば、持ち主が間もなく戻ることは一見して明らかである。また、乙が離れていた時間は短く、距離も約15メートルで同じホーム上であった。甲はこれらの占有を基礎づける事実をすべて認識していた。
(3)甲の弁解は信用できない。第一に、午後2時過ぎにA駅に着いてすぐキャリーバッグに気付いたという点は、乗車券及び防犯カメラ1の画像により午後1時頃から1時間以上ホームに滞留していた事実と矛盾する。第二に、真に忘れ物として届けようとしていたのであれば、乙に泥棒と言われた時点で直ちにその旨を説明するはずであるのに、甲は「何の証拠があってそんなことを言うんだ」と争うのみで、丁が電話をかけ着信音が鳴って初めて「忘れ物だと思った」と言い出しており、弁解は変遷している。第三に、駅事務室は改札口付近にあるのであるから、事務室に届ける意図であったのなら、乙に声を掛けられてキャリーバッグを持ち上げ走り出そうとする仕草を見せる理由がない。
(4)したがって、甲は、乙の占有に属する財物であることを認識しながら、これを乙の占有から排除して自己の占有に移す意思で持ち去ったものであり、窃盗の故意が認められる。甲は自ら所持してこれを利用処分する意思であったから不法領得の意思も認められる。
3 以上より、甲には窃盗罪(刑法235条)が成立する。
以上