司法試験 平成30年 刑法
問題文
[刑事系科目]〔第1問〕(配点:100)
次の【事例】を読んで,後記の〔設問1〕から〔設問3〕までについて,具体的な事実を指摘しつつ答えなさい。
【事例1】1 甲(男性,17歳)は,私立A高校(以下「A高校」という。)に通う高校2年生であり,A高校のPTA会長を務める父乙(40歳)と二人で暮らしていた。
2 7月某日,甲は,他校の生徒と殴り合いのけんかをして帰宅した際,乙から,顔が腫れている理由を尋ねられ,他校の生徒とけんかをしたことを隠そうと思い,とっさに乙に対し,「数学の丙先生から,試験のときにカンニングを疑われた。カンニングなんかしていないと説明したのに,丙先生から顔を殴られた。」とうその話をしたところ,乙は,その話を信じた。
乙は,かねてから丙に対する個人的な恨みを抱いていたことから,この機会に恨みを晴らそうと思い,丙が甲に暴力を振るったことをA高校のPTA役員会で問題にし,そのことを多くの人に広めようと考えた。そこで,乙は,PTA役員会を招集した上,同役員会において,「2年生の数学を担当する教員がうちの子の顔を殴った。徹底的に調査すべきである。」と発言した。なお,同役員会の出席者は,乙を含む保護者4名とA高校の校長であり,また,A高校2年生の数学を担当する教員は,丙だけであった。
3 前記PTA役員会での乙の発言を受けて,A高校の校長が丙やその他の教員に対する聞き取り調査を行った結果,A高校の教員25名全員に丙が甲に暴力を振るったとの話が広まった。丙は,同校長に対し,甲に暴力を振るったことを否定したが,当分の間,授業を行うことや甲及び乙と接触することを禁止された。
〔設問1〕 【事例1】における乙の罪責について,論じなさい(業務妨害罪及び特別法違反の点は除く。)。
なお,乙には,公益を図る目的はなかったものとする。
【事例2】4 丙は,甲及び乙との接触を禁止されていたが,乙に対し,前記PTA役員会での乙の発言の理由を直接尋ねたいと考え,8月某日午後10時に乙を町外れの山道脇の駐車場に呼び出した。
乙は,丙と直接話をするに当たり,甲が丙から顔を殴られたことについて,甲に改めて確認しておこうと思い,甲に対し,「今日の午後10時に山道脇の駐車場で丙と会うことになった。あの話は本当だよな。」と尋ねた。甲は,乙と丙が直接話合いをすることを知り,このままうそをつき通すことはできないと思い,乙に対し,うそであることを認めて謝った。乙は,甲がうそをついていたことに怒り,「なぜ,うそをついたんだ。」と怒鳴りながら,甲の顔を複数回殴って叱責した。
5 同日午後10時頃,乙は,自動車を運転して,前記駐車場まで行き,同駐車場に自動車を駐車して自動車から降りると,同駐車場において,既に到着していた丙と向かい合って,話を始めた。
そして,丙が乙に前記PTA役員会での乙の発言の理由を尋ねたところ,乙は,「息子もうそだと認めたので,この話は,これで終わりだ。」と言い,一方的に話を終わらせ,自己の自動車の方に向かって歩き出した。丙は,乙の態度に納得できずに「まだ話は終わっていない。」と言って乙を追い掛けたところ,乙は,急いで自動車に乗り込もうとした際,石につまずいて転倒し,額をコンクリートブロックに強く打ち付け,額から血を流して意識を失った。丙は,乙が額から血を流して意識を失ったことに驚き,その場から立ち去った。
6 甲は,乙と丙の話合いがどうなったかが気になり,同日午後10時30分頃,バイクを運転して前記駐車場に向かい,同駐車場で倒れている乙を発見した。甲は,同駐車場に止めたバイクにまたがったまま,乙に「親父。大丈夫か。」と声を掛けたところ,これにより乙が意識を取り戻して立ち上がった。乙は,甲が同駐車場にいることには気付かず,自己の自動車を駐車した場所に向かおうとしたが,意識がはっきりとしていなかったため,その場所とは反対方向の崖に向かって歩き出し,約10メートル歩いた崖近くで転倒して意識を失った。
山道脇の駐車場には,街灯がなく,夜になると車や人の出入りがほとんどなかった。さらに,乙が転倒した場所は,草木に覆われており,山道及び同駐車場からは倒れている乙が見えなかった。もっとも,乙が崖近くで転倒した時点では,乙の怪我の程度は軽傷であり,その怪我により乙が死亡する危険はなかった。しかし,乙が転倒した場所のすぐそばが崖となっており,崖から約5メートル下の岩場に乙が転落する危険があった。
7 甲は,バイクから降りて,乙に近づいて乙の様子を見ており,乙の怪我が軽傷であること,乙が転倒した場所のすぐそばが崖となっており,崖下の岩場に乙が転落する危険があることを認識していた。また,乙が崖近くで転倒した時点で,同駐車場に駐車中の乙の自動車の中に乙を連れて行くなどすれば,乙が崖下に転落することを確実に防止することができたし,甲は,それを容易に行うことができた。
しかし,甲は,丙から顔を殴られたという話がうそであることを認めて謝ったのに,乙から顔を複数回殴られ叱責されたことを思い出し,乙を助けるのをやめようと考え,乙の救助を一切行うことなく,その場からバイクで走り去った。
8 その後,甲が自宅に到着した頃,乙は,意識を取り戻して起き上がろうとしたが,崖に向かって体を動かしたため,崖下に転がり落ち,後頭部を岩に強く打ち付け,後頭部から出血して意識を失った。この時点で,乙の怪我の程度は重傷であり,乙が意識を失ったまま崖下に放置されれば,その怪我により乙が死亡する危険があった。
9 同日午後11時30分頃,乙は,意識を取り戻し,自己の携帯電話機で119番通報を行い,臨場した救急隊員により救助され,搬送先の病院で緊急手術を受けて一命を取り留めた。
〔設問2〕 【事例2】における甲の罪責について,以下の⑴及び⑵に言及しつつ,論じなさい(特別法違反の点は除く。)。
⑴ 不作為による殺人未遂罪が成立するとの立場からは,どのような説明が考えられるか。
⑵ 保護責任者遺棄等罪(同致傷罪を含む。)にとどまるとの立場からは,不作為による殺人未遂罪が成立するとの立場に対し,どのような反論が考えられるか。
〔設問3〕 【事例2】の6から9までの事実が以下の10及び11の事実であったとする。
10 甲は,乙と丙の話合いがどうなったかが気になり,同日午後10時30分頃,バイクを運転して山道脇の駐車場に向かい,同駐車場で意識を失って倒れている丁を発見した。丁は,甲とは無関係な者であるが,その怪我の程度は重傷であり,そのまま放置されれば,その怪我により死亡する危険があった。
甲は,丁の体格や着衣が乙に似ていたこと,同駐車場に乙の自動車が駐車されていたこと,夜間で同駐車場には街灯がなく暗かったことから,丁を乙と誤認した。
11 甲は,重傷を負った乙が死んでも構わないと思いつつ,乙と誤認した丁の救助を一切行うことなく,その場からバイクで走り去った。その後,丁は,意識を取り戻し,自己の携帯電話機で119番通報を行い,臨場した救急隊員により救助され,搬送先の病院で緊急手術を受けて一命を取り留めた。
なお,甲と同じ立場にいる一般人でも,丁を乙と誤認する可能性が十分に存在した。また,同駐車場には,丁以外にも負傷した乙が倒れており,甲は,乙の存在に気付いていなかったが,丁を救助するために丁に近づけば,容易に乙を発見することができた。
この場合,甲には無関係の丁を救助する義務は認められないので殺人未遂罪は成立しないとの主張に対し,親に生じた危難について子は親を救助する義務を負うとの立場を前提に,甲に同罪が成立すると反論するには,どのような構成が考えられるかについて,論じなさい。
出題の趣旨
法務省が公表した出題の趣旨です。
〔第1問〕本問は,⑴設問1で,A高校のPTA会長である乙が,同高校のPTA役員会において,「2年生の数学を担当する教員(丙)がうちの子(甲)の顔を殴った。徹底的に調査すべきである。」と発言した行為について,名誉毀損罪の成否を検討させ,⑵設問2で,夜間の町外れの山道脇の駐車場において,負傷して倒れていた父親の乙を救助しなかった甲の不作為について,殺人未遂罪及び保護責任者遺棄等罪が成立すると主張する上での各理論構成を検討させ,さらに,⑶設問3で,同所において,甲とは無関係の丁が負傷して倒れていた場合に,その丁を救助しなかった甲の不作為について,殺人未遂罪が成立すると主張する上での理論構成を検討させることにより,刑事実体法及びその解釈論の知識と理解を問うとともに,具体的な事実関係を分析し,その事実に法規範を適用する能力並びに論理的な思考力及び論述力を試すものである。
⑴ 設問1について本問では,乙の罪責について,丙に対する名誉毀損罪の成否を検討することになる。そこで,同罪の客観的構成要件である「公然」,「事実の摘示」,「人の名誉」及び「毀損」という各構成要件要素について,事実を指摘して具体的に論じる必要がある。
まず,「公然」の意義について,判例の見解では,不特定又は多数人が認識し得る状態をいうとされているところ,公然性が認められるためには,不特定又は多数人が現実に摘示内容を認識することを必要とせず,認識できる状態に置かれれば足りることを的確に指摘する必要がある。
その上で,乙がA高校のPTA役員会において,これに出席していた校長及び保護者3名に対し,丙に関する悪評を伝えた行為に公然性が認められるかが問題となるところ,判例の立場によれば,摘示の相手方が特定かつ少数人であっても,その者らを通じて間接的に不特定又は多数人へと伝播する可能性がある場合には,人に対する社会的評価を低下させる危険を生じさせることから,公然性を肯定できることを論じることになる。もっとも,「公然」
とは,文理上,結果の公然性ではなく,行為の公然性を意味するものであることや,伝播させるかどうかという相手方の意思により犯罪の成否が左右されるのは不当であることなどを理由として,伝播性の理論を否定し,摘示の直接の相手方が不特定又は多数人であることが必要であるとする見解に立って論じることも可能である。
本問において,乙が摘示した直接の相手方は,PTA役員会に出席していた校長及び保護者3名という特定かつ少数人にとどまるものの,これらの出席者は,多数人であるA高校の生徒の保護者らの代表者であって,同役員会における協議結果等を他の保護者や教員ら同高校関係者に伝達・連絡することが当然予定されている。そのような場において,乙が「徹底的に調査すべきである。」などと発言して,丙の暴力行為を糾弾することは,出席者である校長又はPTA役員を介して,同高校内における事実調査や噂話により,同高校関係者等の不特定又は多数人に伝播する可能性が十分あり得ることに着目すれば,伝播性の理論を肯定する立場からは,公然性が認められることになる。他方,伝播性の理論を否定する立場からは,摘示の直接の相手方が特定かつ少数人にとどまることから,公然性は認められないことになる。
次に,「事実の摘示」,「人の名誉」及び「毀損」の各構成要件要素についても,それぞれの意義を正確に押さえつつ,本問における乙の発言について,具体的事実を指摘して,それらの要件充足性の検討を行う必要がある。その際,A高校2年生の数学を担当する教員は丙だけであったことから,「2年生の数学を担当する教員」という発言が,特定の対象者に対する事実の摘示であることを論じるほか,教員である丙が生徒である甲の顔を殴ったという事実を摘示することは,高校教員という職業的地位に鑑み,法的保護に値する社会的評価を害するに足りる行為といえることを論じる必要がある。
他方,乙の発言について公然性を否定した場合には,PTA役員会の出席者であった校長による聞き取り調査を通じて,A高校の教員らに丙の悪評を広めた点を捉えて,乙に,校長の行為を利用した名誉毀損罪の間接正犯あるいは校長との共同正犯や教唆犯が成立しないかについても更に検討する余地がある。
そして,主観的要件として,名誉毀損罪の故意の有無を検討する必要があるところ,乙において,丙の名誉を毀損する意図や目的まで有していたかどうかに関わりなく,自らのPTA役員会における発言によって,丙の社会的評価を低下させるおそれがある事実を不特定又は多数人に伝播させることの認識,認容があったと認められることを簡潔に指摘する必要がある。
なお,乙は,丙が甲に暴力を振るったことが真実であると誤信しているが,そもそも,乙には,公益を図る目的がなかったことから,刑法第230条の2の適用は問題とならない。
また,PTA役員会における乙の発言については,教員の生徒に対する暴力行為を保護者として糾弾する行為として,刑法第35条の正当行為に該当するか否かを検討する余地はあるが,乙は,丙に対する個人的な恨みを晴らそうという目的から,PTA役員会での発言に及んでいることを考慮すれば,乙の行為に社会的相当性は認められず,正当行為には該当しないものと考えられる。
⑵ 設問2について本問では,甲の罪責について,①殺人未遂罪が成立するとの立場と,②保護責任者遺棄等罪にとどまるとの立場の双方の主張・反論に言及しつつ,最終的に自説としていかなる結論を採るのかを論じる必要がある。
まず,①不作為による殺人未遂罪が成立するとの立場からは,作為犯と対比して構成要件的に同価値と評価できるか否かについて,作為義務と作為可能性の観点から判断すべきであることを指摘する必要がある。
作為義務については,その発生根拠と内容を指摘・検討した上で,本問において,甲と乙が親子関係にあることを前提に,甲が本件駐車場で倒れている乙を発見した後,自らが乙に声を掛けたことにより,意識を取り戻した乙が崖近くまで歩いて転倒した様子を見ていること,乙が転倒した場所のすぐそばが崖となっており,崖から約5メートル下の岩場に乙が転落するおそれがあったところ,当時,本件駐車場には,車や人の出入りがほとんどなかった上,乙が転倒した場所は,草木に覆われており,山道及び本件駐車場からは倒れている乙が見えなかったことなどの事実に触れつつ,先行行為や事実上の引受け,さらには,排他的支配性や危険の創出等の発生根拠の充足性について論じる必要がある。
また,作為可能性については,その要件としての必要性を簡潔に指摘した上,本問において,乙が崖近くで転倒した時点で,甲は,本件駐車場に駐車中の乙の自動車の中に乙を連れて行くなどして,乙が崖下に転落することを確実に防止することを容易に行うことができたことから,作為の可能性・容易性が認められることを論じる必要がある。
そして,不作為犯の実行の着手時期についても,その判断基準を示した上で,本問において,甲が,乙が崖近くで転倒していることを認識しながら,乙の救助を行わないことを決意した時点,又は,その決意の表れとして本件駐車場から走り去った時点,あるいは,乙が崖下に転がり落ちて重傷を負った時点で,実行の着手を認めることができることを指摘する必要がある。
さらに,甲に殺人未遂罪が成立するためには,主観的要件として殺意が認められる必要があることから,その点に関する甲の認識内容について,事実を指摘して具体的に論じなければならない。
次に,②保護責任者遺棄等罪にとどまるとの立場からは,まずは,前提として,保護責任の意義及び不作為による殺人未遂罪における作為義務との異同を論じつつ,本問において,甲に,乙に対する保護責任が認められることを指摘する必要がある。
その上で,殺人未遂罪と保護責任者遺棄等罪の区別の基準について,判例・学説に照らし,殺意の有無という主観面による判断要素や,重大な先行行為の有無や危険の程度といった客観面による判断要素を検討すべきであることを,その理由にも言及しつつ論じる必要がある。
本問において,主観面による判断要素に照らせば,甲は,乙が崖近くで転倒した時点で,乙が転倒した場所のすぐそばが崖となっており,崖下の岩場に乙が転落するおそれがあることを認識した上で,乙を助けることをやめようと考えたのであるから,抽象的には,乙が死亡する危険性があることを認識・認容していたものといえる。もっとも,この時点で,乙の怪我の程度は軽傷であり,その怪我により乙が死亡する危険はなかったのであるから,甲に殺意があったと認定するためには,乙が死亡する具体的危険性,すなわち,崖近くで転倒している乙が,再び意識を取り戻すなどした後,何らかの原因により,崖から約5メートル下の岩場に転落し,頭部等を岩に強打することによって即死するか,あるいは,仮に即死に至らなかったとしても,瀕死の重傷を負うことになり,そうなった場合,車や人の出入りがない夜間の山道において,第三者の救助を得ることなく死亡するという危険が現実化することを認識したことが必要である。ただし,甲に殺意が認められるとしても,客観面による判断要素を考慮して,甲が乙に声を掛けた先行行為自体は死の危険性が乏しい,あるいは,乙の怪我が軽傷であって,崖下への転落の危険も抽象的なものにとどまるとして,殺人未遂罪の成立を否定する余地はある。
以上を踏まえ,甲の罪責について,自説の立場として,いかなる結論を採るのかについて,反対説の立場からの反論を意識しつつ,その理由付けの補強や再反論を論じていくことが肝要である。
⑶ 設問3について本問では,甲は,客観的には,乙に対して救助の作為義務を負っている一方で,主観的には,(乙と誤認された)丁に対して救助の作為義務を負っていると誤信しているところ,甲に殺人未遂罪が成立すると主張する上での理論構成を論じる必要がある。
同罪の成否が問題となる対象として,故意犯の成否は,認識された事実を前提に検討されることから,丁の近くで現実に倒れている乙ではなく,丁の代わりに存在すると誤信されている乙であることを的確に指摘する必要がある。
次に,危険の判断方法として,存在すると誤信されている(その意味で,現実には存在しない)乙を不救助により殺害することはできないことから,いわゆる客体の不能が問題となるところ,作為犯における未遂犯と不能犯を区別する基準に関する学説に照らして,甲の不作為に殺人の実行行為性が認められないかを検討することになる。
例えば,甲は,丁の体格や着衣が乙に似ていたこと,本件駐車場に乙の自動車が駐車されていたこと,夜間で同駐車場には街灯がなく暗かったことから,丁を乙と誤認している上,甲と同じ立場にいる一般人でも,丁を乙と誤認する可能性が十分に存在したことから,抽象的危険説からは,甲が認識していた事情を基礎として危険性が認められることになり,具体的危険説からは,一般人が認識し得た事情を基礎として危険性が認められることになる。他方,客観的危険説からは,行為時に存在した全ての事情を基礎とすれば,丁はあくまで丁であって,危険性は認められないことになるが,修正された客観的危険説に立つと,同駐車場には丁以外にも負傷した乙が倒れており,甲が丁を救助するために丁に近づけば,容易に乙を発見することができたのであるから,かかる仮定的事実の下で,危険性が認められる余地があるということになる。そこで,自説の立場を論じた上で,その危険の有無について結論を導き出す必要がある。
そして,自説の立場を前提に,甲に殺人未遂罪が成立すると主張するため,主観面,すなわち,殺意の存在についても言及する必要がある。本問では,現実には丁が存在し,甲は,その丁を,乙と誤認しながらも客体としては認識していたという事情があるため,具体的事実の錯誤(客体の錯誤)として捉えれば,丁に対する故意が肯定され,現実に存在した丁を対象とする殺人未遂罪が成立することになる。これに対して,具体的事実の錯誤(客体の錯誤)として捉えない場合は,甲には,丁の代わりに仮定された乙に対する故意が肯定され,その意味で,乙を対象とする殺人未遂罪が成立することになる。その場合,具体的事実の錯誤(客体の錯誤)として捉えない理由が論じられるべきである。
参考答案AI生成(出題の趣旨と論証集をもとに作成した目安です)
第1 設問1(乙の罪責)
1 名誉毀損罪(刑法230条1項)の成否
乙がPTA役員会において「2年生の数学を担当する教員がうちの子の顔を殴った。徹底的に調査すべきである。」と発言した行為について、丙に対する名誉毀損罪が成立するかを検討する。
(1)「事実の摘示」及び被害者の特定
「事実」とは、人の社会的評価を低下させるに足りる具体的事実をいい、その真実性の有無を問わない。乙の発言は、教員が自校の生徒の顔を殴ったという具体的な暴力行為の存在を内容とするものであり、「事実の摘示」に当たる。
もっとも、乙は丙の氏名を明示していない。しかし、摘示事実が誰に関するものかは発言の内容と聴取者の認識を総合して判断すべきであり、A高校2年生の数学を担当する教員は丙だけであったから、発言を聞いた校長及び保護者3名は、「2年生の数学を担当する教員」が丙を指すことを容易に理解できた。したがって、丙という特定人に対する事実の摘示といえる。
(2)「人の名誉」
「名誉」とは、人に対する社会的評価(外部的名誉)をいう。教員が生徒に暴力を振るったという事実は、教育者としての資質を疑わせるものであって、高校教員という職業的地位に照らし、丙の法的保護に値する社会的評価を害するに足りる事実である。
(3)「公然」
「公然と」とは、不特定または多数人が認識し得る状態をいう(最判昭和34年5月7日)。現実に不特定または多数人が摘示内容を認識することは必要でなく、認識できる状態に置かれれば足りる。
本件で乙が発言した相手は、校長及び保護者3名の計4名であり、特定かつ少数人にとどまる。そこで、公然性が認められるかが問題となる。
この点、特定かつ少数の者に対して事実を摘示した場合でも、その者からさらに不特定多数の者に伝播する可能性がある場合には、人の社会的評価を低下させる危険が現実に生ずるのであるから、「公然と」の要件を充足すると解する(伝播性の理論、同判例)。もっとも、抽象的な伝播可能性で足りるとすれば処罰範囲が不当に拡大するため、摘示の相手方の人数・性質、摘示の場や状況から具体的な伝播可能性が認められる場合に限るべきである。
本件では、PTA役員会は多数人であるA高校生徒の保護者らの代表者が集まる場であり、同役員会の協議結果が他の保護者や教員ら学校関係者に伝達されることが当然予定されている。しかも乙はPTA会長として自ら役員会を招集し、「徹底的に調査すべきである。」と述べて学校側の調査を求めているのであるから、発言内容が校長による調査や関係者間の噂を通じてA高校関係者に広まることは具体的に予見できる。現に校長の聞き取り調査により教員25名全員に話が広まっている。したがって具体的な伝播可能性が認められ、「公然」性が肯定される。
(4)「毀損」
「毀損」とは、人の社会的評価を低下させる危険を生じさせることをいい、現実の評価低下は不要である。前記のとおり丙の社会的評価を低下させる危険が生じているから、「毀損」に当たる。現に丙は授業担当を禁止されている。
(5)故意
乙は、丙の名誉を害する意図の有無を問わず、自己の発言により丙の社会的評価を低下させるおそれのある事実が不特定または多数人に伝播することを認識・認容していたといえるから、故意が認められる。
なお、乙は甲の虚言により摘示事実を真実と誤信しているが、乙には公益を図る目的がなかったから、230条の2の適用はなく、同条の事実の錯誤も問題とならない。
2 正当行為(35条)
教員の生徒に対する暴力を保護者として糾弾する行為は正当行為となる余地があるが、乙は丙に対する個人的な恨みを晴らす目的で発言に及んでおり、動機において正当性を欠くから、社会的相当性は認められず、35条には当たらない。
3 以上より、乙には丙に対する名誉毀損罪が成立する。なお、仮に公然性を否定するとしても、乙は校長による調査を通じて教員らに悪評を広めており、情を知らない校長を利用した名誉毀損罪の間接正犯が成立する余地がある。
第2 設問2(甲の罪責)
1 不作為による殺人未遂罪(203条、199条)が成立するとの立場
(1)甲は乙を救助しないという不作為にとどまるが、不作為も実行行為となり得る。ただし処罰範囲の明確性の観点から、作為犯との構成要件的同価値性が必要であり、具体的には①作為義務(保障人的地位)、②作為の可能性・容易性、③故意が要求される。
(2)作為義務は、法令・契約・慣習等に基づく保護の義務、先行行為による危険の創出、事実上の引受け、法益に対する排他的支配といった事情を総合して認められる。
本件で甲は乙の実子であり(民法上の扶養義務)、しかも甲が乙に声を掛けたことにより乙が意識を取り戻して立ち上がり、意識不明瞭なまま崖方向へ歩いて転倒したのであるから、甲の先行行為が崖下転落という危険を創出したといえる。加えて甲はバイクを降りて乙に近づき、その様子を見ており、事実上救助を引き受けたと評価できる。さらに、現場は街灯のない町外れの山道脇の駐車場で夜間は車や人の出入りがほとんどなく、乙が転倒した場所は草木に覆われ山道及び駐車場から見えなかったのであるから、乙の生命は甲の排他的支配下にあった。したがって作為義務が認められる。
(3)乙が崖近くで転倒した時点で、甲は駐車中の乙の自動車の中に乙を連れて行くなどすれば転落を確実に防止できたし、それを容易に行うことができたから、作為の可能性・容易性も認められる。
(4)実行の着手は、構成要件的結果発生の現実的危険性を惹起する行為を開始した時点で認められる。不作為犯においては、作為義務の履行が可能かつ必要となった後、結果発生の現実的危険が生じた時点、すなわち甲が救助しないことを決意し、その表れとして現場からバイクで走り去った時点に実行の着手を認めることができる。
(5)殺意については、放置すれば乙が死亡する蓋然性の認識・認容が必要である。甲は、乙の傷が軽傷であるものの、転倒した場所のすぐそばが崖であり崖下約5メートルの岩場に転落する危険があることを認識し、かつ現場が夜間人の来ない場所であることも認識していた。乙が再び動けば転落して頭部を強打し、即死するか瀕死の重傷を負い、救助を得られず死亡するという経過を認識し得たといえ、これを認容して救助をやめた以上、殺意が認められる。
(6)結果は不発生であるから殺人未遂罪が成立する。
2 保護責任者遺棄等罪にとどまるとの立場からの反論
保護責任者遺棄罪(218条)の「保護責任」も不作為犯の作為義務と重なるが、同罪は生命・身体に対する危険犯であり、作為義務の程度は殺人罪における作為義務ほど高度でなくてよい。両罪の区別は、第一次的には殺意の有無によるが、客観面として先行行為の危険性の程度や生じた危険の切迫性も考慮すべきである。
この立場からは、第一に、甲が乙に声を掛けたという先行行為自体は死の危険性に乏しく、作為による殺害と同価値といえるほどの危険創出とは評価できないとの反論が可能である。第二に、乙が崖近くで転倒した時点で乙の傷は軽傷であり、その傷により死亡する危険はなかったうえ、転落も乙自身が再び動くという偶発的事情を介して初めて生じるものであって、死の危険は抽象的なものにとどまるとの反論ができる。第三に、主観面についても、甲は抽象的に乙が死ぬかもしれないと思ったにすぎず、前記の具体的な死亡経過の認識・認容までは認められないから、殺意を欠き、せいぜい遺棄の故意にとどまるとの反論ができる。
3 自説
私見としては、乙の傷が軽傷で死亡の危険がなく、崖下転落も乙自身の挙動を介する偶発的なものであった以上、甲の不作為の時点で死亡の現実的危険は切迫しておらず、甲の認識も抽象的危険の認識にとどまると解する。そこで甲には殺意を認められず、不作為による殺人未遂罪は成立しない。もっとも、甲は前記のとおり乙の「保護責任」を負う者であり、乙を危険な場所に置いたまま離れて保護を与えなかったのであるから、不保護による保護責任者遺棄罪が成立する。そして、甲の不保護により乙は崖下に転落して後頭部を強打する重傷を負っており、不保護と傷害との間に因果関係が認められるから、保護責任者遺棄致傷罪(219条、218条)が成立する。
第3 設問3
1 検討対象の確定
故意犯の成否は行為者が認識した事実を前提に検討されるから、ここで問題となるのは、現に丁の近くに倒れていた乙ではなく、丁の代わりに存在すると甲が誤信していた乙に対する救助義務違反である。甲は丁を乙と誤認しているため、客観的には救助義務を負わない丁を放置したにすぎず、殺人の実行行為性が認められるかが問題となる。すなわち、誤信された乙は現実には甲の目前に存在しないのであるから、客体の不能として不能犯か未遂犯かが問題となる。
2 不能犯と未遂犯の区別
未遂犯の処罰根拠は結果発生の具体的危険の惹起にあるから、行為時に行為者が認識した事情及び一般人が認識し得た事情を基礎として、一般人の見地から結果発生の具体的危険が認められる場合には実行行為性を肯定すべきである(具体的危険説)。
本件では、丁の体格や着衣が乙に似ていたこと、駐車場に乙の自動車が駐車されていたこと、夜間で街灯がなく暗かったことから、甲と同じ立場にいる一般人でも丁を乙と誤認する可能性が十分に存在した。そうすると、一般人の見地からは、倒れている重傷者が甲の救助義務の対象である乙であり、これを放置すれば死亡するという具体的危険が認められる。しかも現実に同駐車場には負傷した乙が倒れており、甲が丁に近づけば容易に乙を発見できたのであるから、修正された客観的危険説からも、甲が救助に向かえば乙を発見・救助し得たという仮定的事実を基礎として危険性を肯定できる。したがって甲の不作為に殺人の実行行為性が認められる。
3 故意
甲は重傷を負った乙が死んでも構わないと思って救助しなかったのであるから、殺意がある。もっとも客体は丁であった。
甲は、目前に倒れている者という客体を特定して認識しつつ、その人違いをしたにすぎないから、これは具体的事実の錯誤のうち客体の錯誤であり、法定的符合説からは故意を阻却しない。したがって、現実に存在した丁を客体とする殺人の故意が認められ、丁に対する殺人未遂罪が成立する。
なお、甲が負う作為義務は親である乙に対するものであって丁に対するものではないから、丁を客体とする構成を採らず、仮定された乙に対する故意を肯定して乙を客体とする殺人未遂罪の成立を認める構成も考えられる。この場合、作為義務の対象者が客体の同一性を基礎づける要素であり、乙と丁とでは義務の対象として構成要件的に別個であることが、客体の錯誤として扱わない理由となる。
4 以上より、いずれの構成によっても甲には殺人未遂罪が成立する。
以上