司法試験 平成27年 刑法
問題文
[刑事系科目]〔第1問〕(配点:100)
以下の事例に基づき,甲,乙及び丙の罪責について,具体的な事実を摘示しつつ論じなさい(特別法違反の点を除く。)。
1 甲 (53歳, 男性, 身長170センチメートル, 体重75キログラム) は, 医薬品の研究開発・製造・販売等を目的とするA株式会社(以下「A社」という。)の社員である。
A社には,新薬開発部,財務部を始めとする部があり,各部においてその業務上の情報等を管理している。各部は,A社の本社ビルにおいて,互いに他の部から独立した部屋で業務を行っている。
2 某年12月1日,甲がA社の新薬開発部の部長になって2年が経過した。甲は,部長として,新薬開発部が使用する部屋に設置された部長席において執務し,同部の業務全般を統括し,A社の新薬開発チームが作成した新薬の製造方法が記載された書類(以下「新薬の書類」という。 )
を管理するなどの業務に従事していた。新薬の書類は,部長席の後方にある,暗証番号によって開閉する金庫に入れて保管されていた。
3 甲は,同日,甲の大学時代の後輩であり,A社とライバル関係にある製薬会社の営業部長乙(50歳,男性)から食事に誘われ,その席で,乙に,「これはまだ秘密の話だが,最近,A社は新薬の開発に成功した。 私は, 新薬開発部の部長だから, 新薬の書類を自分で保管しているのだよ。」
と言った。すると,乙は,甲に,「是非,その書類を持ち出して私に下さい。私は,その書類を我が社の商品開発に活用したい。 成功すれば, 私は将来, 我が社の経営陣に加わることができる。
その書類と交換に,私のポケットマネーから300万円を甲先輩に払いますし,甲先輩を海外の支社長として我が社に迎え入れます。」と言った。
甲は,部長職に就いたものの,A社における自己の人事評価は今一つで,そのうち早期退職を促されるかもしれないと感じていたため,できることならば300万円を手に入れるとともに乙の勤務する会社に転職もしたいと思った。そこで,甲は,乙に,「分かった。具体的な日にちは言えないが,新薬の書類を年内に渡そう。また連絡する。」と言った。
4 甲は,その後,同月3日付けで財務部経理課に所属が変わり,同日,新薬開発部の後任の部長に引継ぎを行って部長席の後方にある金庫の暗証番号を伝えた。
甲は,もし自己の所属が変わったことを乙に告げれば,乙は同月1日の話をなかったことにすると言うかもしれない,そうなれば300万円が手に入らず転職もできないと思い,自己の所属が変わったことを乙に告げず,毎月15日午前中にA社の本社ビルにある会議室で開催される新薬開発部の部内会議のため同部の部屋に誰もいなくなった隙に新薬の書類を手に入れ,これを乙に渡すこととした。
5 甲は,同月15日,出勤して有給休暇取得の手続を済ませ,同日午前10時30分,新薬開発部の部内会議が始まって同部の部屋に誰もいなくなったことを確認した後,A3サイズの書類が入る大きさで, 持ち手が付いた甲所有のかばん(時価約2万円相当。 以下「甲のかばん」 という。)
を持って同部の部屋に入った。そして,甲は,部長席の後方にある金庫に暗証番号を入力して金庫を開け,新薬の書類(A3サイズのもの)10枚を取り出して甲のかばんに入れ,これを持って新薬開発部の部屋を出て,そのままA社の本社ビルを出た。
甲は,甲のかばんを持ってA社の本社ビルの最寄り駅であるB駅に向かいながら,乙に,電話で,「実は,先日,私は新薬開発部から財務部に所属が変わったのだが,今日,新薬の書類を持ち出すことに成功した。 これから会って渡したい。」 と言ったところ, 乙は, 甲に,「所属が変わったことは知りませんでした。遠くて申し訳ありませんが,私の自宅で会いましょう。そこで300万円と交換しましょう。」と言った。
6 甲が向かっているB駅は, 通勤・通学客を中心に多数の乗客が利用する駅で,駅前のロータリーから改札口に向かって右に自動券売機があり,左に待合室がある。待合室は四方がガラス張りだが,自動券売機に向かって立つと待合室は見えない。待合室は,B駅の始発時刻から終電時刻までの間は開放されて誰でも利用でき,出入口が1か所ある。自動券売機と待合室の出入口とは直線距離で20メートル離れている。
7 甲は,B駅に着き,待合室の出入口を入ってすぐ近くにあるベンチに座り,しばらく休んだ。
そして,甲は,同日午前11時15分,自動券売機で切符を買うため,甲のかばんから財布を取り出して手に持ち,新薬の書類のみが入った甲のかばんを同ベンチに置いたまま待合室を出て,自動券売機に向かった。
待合室の奥にあるベンチに座って甲の様子を見ていた丙(70歳,男性)は,ホームレスの生活をしていたが,真冬の生活は辛かったので,甲のかばんを持って交番へ行き,他人のかばんを勝手に持ってきた旨警察官に申し出れば,逮捕されて留置施設で寒さをしのぐことができるだろうと考え, 同日午前11時16分, ベンチに置かれた甲のかばんを抱え, 待合室を出た。 この時,甲は,自動券売機に向かって立ち,切符を買おうとしていた。丙は,甲のかばんを持って直ちにロータリーの先にある交番(待合室出入口から50メートルの距離)に行き,警察官に, 「駅の待合室からかばんを盗んできました。」と言って,甲のかばんを渡した。
甲がB駅の待合室に入ってから丙が甲のかばんを持って待合室を出るまでの間,待合室を利用した者は,甲と丙のみであった。
8 甲は,同日午前11時17分,切符の購入を済ませて待合室に戻る途中で,甲のかばんと同じブランド,色,大きさのかばんを持って改札口を通過するC(35歳,男性,身長175センチメートル,体重65キログラム)を見たことから,甲のかばんのことが心配になって待合室のベンチを見たところ,甲のかばんが無くなっていたので,Cが甲のかばんを盗んだものと思い込んだ。
甲は,Cからかばんを取り返そうと考え,即座に,「待て,待て。」と言ってCを追い掛けた。
甲は,同日午前11時18分,改札口を通過してホームに向かう通路でCに追い付き,Cに,「私のかばんを盗んだな。返してくれ。」と言った。しかし,Cは,自己の所有するかばんを持っていたので,甲を無視してホームに向かおうとした。甲は,Cに,「待て。」と言ったが,Cが全く取り合わなかったので,「盗んだかばんを返せと言っているだろう。」と言ってCが持っていたC所有のかばんの持ち手を手でつかんで引っ張ってそのかばんを取り上げ,これを持ってホームに行き,出発間際の電車に飛び乗った。
Cは,甲からかばんを引っ張られた弾みで通路に手を付き,手の平を擦りむいて,加療1週間を要する傷害を負った。
出題の趣旨
法務省が公表した出題の趣旨です。
〔第1問〕本問は,A社の新薬開発部の部長であった甲が,乙から持ち掛けられて,自ら管理していた新薬の製造方法が記載された書類(以下「新薬の書類」という。)を密かに会社外に持ち出して乙に渡すことを決心し,他部に異動となったにもかかわらず,新薬の書類を金庫から持ち出し,これを自己のかばん(以下「甲のかばん」という。)の中に入れて乙方に向かう途中,立ち寄った駅待合室で丙から甲のかばんを持ち去られたところ,その直後に,甲のかばんと同種,同形状のかばん(以下「Cのかばん」という。)を持って駅改札口を通過するCを見て,Cが甲のかばんを持ち去ろうとしているものと誤解し,Cが持っていたCのかばんの持ち手をつかんでそのかばんを奪い取るとともに,Cに加療1週間の傷害を負わせたという具体的事例について,甲乙丙それぞれの罪責を検討させることにより,刑事実体法及びその解釈論の知識と理解を問うとともに,具体的な事実関係を分析してそれに法規範を適用する能力及び論理的な思考力・論述力を試すものである。特に,甲の罪責を論ずるに当たっては,犯罪事実の認識の問題と,錯誤の問題を明確に区別して論ずることができるかが問われており,刑法の体系的理解を試すものといえる。
⑴ 甲の罪責について甲は,A社の新薬開発部の部長であった某年12月1日,大学時代の後輩であり,A社のライバル会社の社員であった乙から300万円の報酬等を提示された上,当時,甲が管理していた新薬の書類を金庫から持ち出して乙に渡すように持ち掛けられ,これを了承した。
そして,甲は,同月15日,新薬開発部の部屋にある金庫内に保管されていた新薬の書類を甲のかばんの中に入れてA社外に持ち出したが,この時点で,甲は,新薬開発部の部長を解任され,他部に異動していた。この新薬の書類を金庫から持ち出した点に関しての甲の罪責を論ずるに当たって,上記のとおり甲の立場に変更が生じていたことから,新薬の書類の占有の帰属を的確に論ずることが求められる。すなわち,甲は,新薬開発部部長として,新薬の書類を管理していたと認められるところ,同部長職を解かれ,後任部長に事務の引継ぎを行った際,金庫内に保管されていた新薬の書類も引き継ぎ,これを保管している金庫の暗証番号も後任部長に引き継いだが,金庫の暗証番号自体に変更がなく,甲は,金庫から新薬の書類を持ち出すことが事実上可能であったという事実関係を前提として,新薬の書類に対する甲の占有は喪失したものといえるのかを論じる必要がある。仮に,新薬の書類に対する甲の占有が失われていないとしても,後任部長にも新薬の書類に対する管理権が存在するとすれば,新薬の書類を持ち去る甲の行為は,共同占有者の占有を侵害することとなる点に注意が必要である。
また,甲は,有給休暇を取った上,金 庫内の新薬の書類を持ち出す目的で,誰もいなくなった新薬開発部の部屋に入っており,A社における各部の部屋の状況等を踏まえ,建造物侵入罪の成否について簡潔に論じる必要がある。
甲は,新薬の書類を入れた甲のかばん を駅待合室に置いて切符を買いに行った際,丙によって甲のかばんを持ち去られてしまった。その直後,待合室に戻ろうとした甲は,甲のかばんと同種,同形状のかばんをCが持っているのを見て,Cが甲のかばんを駅待合室から持ち出して立ち去ろうとしていると誤解し,Cが持っているCのかばんの持ち手部分をつかんで強引に引っ張り,Cのかばんを奪い取るとともに,その弾みで通路に手を付かせ,Cに加療1週間を要する傷害を負わせた。
まず,Cのかばんを奪い取るという甲 の行為がいかなる構成要件に該当することとなるのかを確定する必要がある。具体的には,甲は,Cに対して有形力を行使(暴行)していることから,甲の行為が強盗罪に該当するか窃盗罪に該当するかを論ずる必要がある。その際には,いわゆる「ひったくり」に関する判例・学説を理解していることが期待されている。
次に,甲が,Cのかばんを甲のかばん と誤解している点をどのように考えるかを検討する必要がある。そして,Cのかばんを甲のかばんと誤解しているその甲の認識は, 「他人の財物」性に係る問題であること,すなわち構成要件該当事実の認識の問題であることを的確に把握することが求められる(違法性阻却事由に関する錯誤の問題ではない。)。そして,窃盗罪あるいは強盗罪における「他人の財物」 (甲のかばんに関していえば,「他人の占有する自己の財物」)の概念をいかに解釈すべきかについては,これらの罪の保護法益との関係で種々の考え方があり得るところであるので,窃盗罪あるいは強盗罪の保護法益に関する自らの考え方を端的に論じ,各自の保護法益論との関係で,甲の認識が窃盗罪ないし強盗罪の故意の成否にどのように影響するのかを論じなければならない。
また,Cに怪我を負わせた点について ,構成要件の問題としては傷害罪が成立することを論ずる必要がある。この傷害罪については,窃盗罪の場合と異なり,暴行の認識に欠けるところはないが,甲は,甲のかばんをCが盗んだと認識していることから,このように認識している点が傷害罪の成否にどのように影響するかを論ずる必要がある(窃盗の故意を認める場合には,窃盗罪と傷害罪の双方についての成否が問題となろう。また,甲のCに対する暴行を強盗罪における暴行と認定する場合には,強盗罪の故意を肯定するのであれば強盗致傷罪の成否を問題とすることになろうし,強盗罪の故意を否定するのであれば致傷の点を傷害罪の成否として論ずることになろう。 )。甲の意図は,甲のかばんの取り返しであるから,仮に,甲の認識のとおりの事態であった場合,甲の行為が正当化されるかどうかを検討する必要がある。これが肯定されれば,甲は違法性阻却事由に関する事実を認識していたことになるし,否定されれば,その認識は違法性阻却事由に関する事実を認識していたということにはならない。そして,本件で問題となる違法性阻却事由は,正当防衛ないし自救行為であるところ,そのいずれであるかは,甲の認識どおりの事態,すなわち,Cが甲のかばんを駅待合室から持ち去ったという事態が存在すると仮定した場合,その事態が急迫不正の侵害に当たるかどうかという点を検討することになる。そして,侵害の急迫性に関しては,窃盗罪の既遂時期との関係を意識する必要がある。すなわち,本件において,Cが駅待合室にあった甲のかばんを持ち去ったと仮定した場合,Cは駅待合室を出て駅改札口を通過するところであったから,窃盗は既遂に至っていると考えられるが,窃盗の既遂時期と侵害の急迫性の終了時期は必ずしも一致しないことを意識して急迫性の有無を論じることが期待されている。その結果,急迫性を肯定した場合は誤想防衛の問題となり,急迫性を否定した場合には誤解によって自救行為と認識していた場合(以下,便宜上「誤想自救行為」という。)の問題となる。これらの問題として処理する場合,違法性阻却事由に関する錯誤の刑法上の位置付けについて,論拠を示して論ずることとなる。
具体的には,故意責任が認められる理由を示し,誤想防衛ないし誤想自救行為が故意責任にどのように影響するのかを論ずることとなろう。その上で,甲の認識していた事態が正当防衛ないし自救行為の要件に該当するかを個別具体的に検討する必要がある。特に,甲の行為が過剰性を有する場合,誤想過剰防衛ないし誤想過剰自救行為となることから,甲の行為が,相当性,必要性を有する行為といえるかを,問題文にある具体的な事実を挙げて検討することが求められる。これらの検討の結果,過剰性が認められる場合には甲に傷害罪が成立することとなろうが,誤想防衛ないし誤想自救行為として,傷害罪の故意を否定する場合,さらに,侵害について誤信した点についての過失を検討する必要がある。これに過失があるとすれば,過失傷害罪が成立することとなろう。
そして,最後に,罪数について処理する必要がある。
⑵ 乙の罪責乙は,新薬開発部の部長であり,新薬の書類の管理者である甲に対して,新薬の書類を持ち出して自己に渡すよう持ち掛けた。乙は,甲に持ち掛けただけで自ら実行行為を行っていないことから,乙の罪責について,共同正犯,教唆犯の成否を検討する必要がある。その前提として,乙は,一部の実行行為さえしていないから,いわゆる共謀共同正犯の肯否が問題となり得るが,これは判例の立場を踏まえて,簡潔に論ずれば足りる。その上で,共謀共同正犯と教唆犯の区別について,自らの区別基準を踏まえて,その基準に事実関係を的確に当てはめることが求められる。具体的には,共謀共同正犯の成立根拠について触れた上,成立するための要件を示すことによって共同正犯と教唆犯の区別基準を明示した上,その要件に具体的な事実を当てはめることが必要である。なお,乙について教唆犯とする場合でも,共同正犯と教唆犯の区別基準を踏まえた論述によって共同正犯を否定した上で,教唆犯の要件に事実を当てはめることが求められている。
また,甲が新薬の書類を持ち出した当時,甲は新薬開発部を異動しており,新薬の書類に対する管理権を失っていたことから,「甲自身が管理する新薬の書類を持ち出す。」という乙の持ち掛けに対して,甲は,「後任部長が管理する新薬の書類を持ち出す。」行為をしたことになる。そこで,甲の同行為が甲乙間の共謀ないし乙の教唆行為によるものかどうかが問題となるが,この点は,乙の持ち掛けと甲の行為との間に因果性が認められることを簡潔に述べれば足りると思われる。
次に,甲乙間の共謀ないし乙の教唆行為の際には,甲は実際に新薬の書類を業務上管理しており,乙の認識(故意)は,業務上横領罪のそれであったところ,甲の行為が業務上横領ではなく,窃盗罪であるとした場合,乙の認識と甲の行為との間に齟齬が生じていることから,錯誤の問題を論じる必要がある。本件の錯誤は,構成要件を異にするいわゆる抽象的事実の錯誤であるから,このような錯誤の場合にどのように処理するか,故意責任の本質について触れて一般論を簡潔に示した上,業務上横領罪と窃盗罪との関係を論じることになる。その際,両罪の構成要件の重なり合いがどのような基準で判断されるのかを論ずることになろう。
そして,業務上横領罪と窃盗罪との間に重なり合いが認められた場合には軽い罪の限度での重なり合いを認めることとなろうが,業務上横領罪と窃盗罪とは懲役刑については同一の法定刑が定められているものの,窃盗罪には罰金刑が選択刑として規定されていることを踏まえ,そのいずれが軽い罪に当たるのか述べることが求められる。甲が業務上横領罪を犯した場合,刑法65条の規定によって,乙には単純横領罪が成立するか,少なくとも同罪で科刑されることとなるので,異なる構成要件間の重なり合いを論ずるに当たって,業務上横領罪と窃盗罪の比較ではなく,単純横領罪と窃盗罪を比較するという考え方もあり得るであろう。いずれにしても,自己が取る結論を筋立てて論ずることが求められる。
⑶ 丙の罪責丙は,甲が甲のかばんを駅待合室に置いたまま同室を出たのを見て,甲のかばんを持って駅待合室から出た。丙の罪責を論ずるに当たっては,駅待合室内の甲のかばんに甲の占有が及んでいるかどうかを検討する必要がある。問題文には,甲の占有に関する事実が挙げられているが,これらの事実を単に羅列するのではなく,占有の要件(占有の事実及び占有の意思)に即して,必要かつ十分な事実を整理して論ずることが求められる。そして,甲の占有を肯定した場合には窃盗罪の成否を,否定した場合には占有離脱物横領罪の成否を,それぞれ客観的構成要件を踏まえて論ずることとなる。
次に,丙が甲のかばんを持ち去った理由は,これを交番に持ち込んで逮捕してもらおうというものであり,丙には,甲のかばんをその本来の用法に使用する意思はおろか,何らかの用途に使用する意思もなかった。窃盗罪については,判例上,故意とは別個の書かれざる主観的構成要件要素として,不法領得の意思が必要とされている。そして,判例(大判大4・5・21刑録21輯663頁)は,不法領得の意思の内容につき, 「権利者を排除して,他人の物を自己の所有物として,その経済的用法に従い,利用し処分する意思」と解しているところ(近時の判例として最決平16・11・30刑集58巻8号1005頁がある。),この不法領得の意思の内容をどのように解するのかによって丙の窃盗罪あるいは占有離脱物横領罪の成否が異なることとなるから,不法領得の意思について,その概念を述べるだけでなく,その内容にも踏み込んで論述し,これに丙の意思を当てはめて,丙に不法領得の意思を認めることができるのかを論ずることが肝要である。本件のようないわゆる刑務所志願の事案については,下級審の裁判例でも結論が分かれているところであり,いずれの結論を採るにしても,自らが提示した不法領得の意思の概念を踏まえて事実を当てはめて結論することが求められている。仮に,丙について不法領得の意思を否定した場合には,毀棄罪,具体的には器物損壊罪の成否を論ずることが必要である。
なお,丙に窃盗罪あるいは器物損壊罪 が成立するとした場合,丙は,その事実を直ちに交番の警察官に申告していることから,自首の成否が問題となり得るところである。
参考答案AI生成(出題の趣旨と論証集をもとに作成した目安です)
第1 甲の罪責
1 新薬開発部の部屋に立ち入った行為について建造物侵入罪(刑法130条前段)の成否
A社の本社ビルは「人の看守する建造物」に当たる。「侵入」とは、建造物の管理権者の意思に反する立入りをいう。
A社では各部が互いに独立した部屋で業務を行い、各部がその業務上の情報等を管理しているから、新薬開発部の部屋への立入りの可否は同部の管理権者である部長が決する。甲は12月3日付けで財務部経理課に所属が変わり、同部の部屋に立ち入る権限を失っていた。それにもかかわらず甲は、有給休暇取得の手続を済ませた上、同月15日午前10時30分、部内会議が始まって同部の部屋に誰もいなくなったことを確認し、金庫内の新薬の書類を持ち出す目的でA3サイズの書類が入るかばんを持って立ち入っている。これは管理権者の意思に反する立入りであり「侵入」に当たる。
よって建造物侵入罪が成立する。
2 新薬の書類を持ち出した行為について
(1)業務上横領罪と窃盗罪のいずれが成立するかは、新薬の書類の占有の帰属により決まる。
横領罪における占有は委託信任関係に基づく占有をいう。甲は、新薬開発部長であった間は新薬の書類を業務上管理していたが、12月3日付けで異動し、同日後任の部長に引継ぎを行って金庫の暗証番号も伝えている。これにより新薬の書類の管理権は後任部長に移転し、甲が委託に基づいてこれを占有する地位は失われた。金庫の暗証番号が変更されず甲が事実上書類を持ち出すことが可能であったとしても、それは事実上の可能性にすぎず、委託信任関係に基づく占有を基礎づけるものではない。
したがって、新薬の書類は甲にとって「他人の財物」であり、業務上横領罪は成立しない。
(2)窃盗罪(235条)の成否
「窃取」とは、占有者の意思に反して財物の占有を自己又は第三者に移転させることをいう。甲は、部屋に誰もいない隙に金庫に暗証番号を入力してこれを開け、新薬の書類10枚を取り出して自己のかばんに入れ、これを持って部屋を出てA社の本社ビルを出ている。後任部長及びA社の意思に反して書類の占有を自己に移したものであり窃取に当たる。遅くとも本社ビルを出た時点で既遂である。
甲は、乙から300万円の支払と転職の提供を受けるためこれを乙に交付する意思であったから、権利者を排除して自己の所有物として経済的用法に従い処分する意思があり、不法領得の意思も認められる。
よって窃盗罪が成立する。
3 Cのかばんを奪い、Cに傷害を負わせた行為について
(1)強盗罪か窃盗罪か
甲はCに有形力を行使しているから、強盗罪(236条1項)の成否が問題となる。同罪の「暴行」は、相手方の反抗を抑圧する程度のものでなければならない。いわゆるひったくりは、通常は財物自体に向けられた力の行使にとどまり、反抗抑圧に至らないから窃盗罪にとどまると解すべきである。
本件で甲は、Cが持っていたかばんの持ち手を手でつかんで引っ張り、これを取り上げたにすぎない。甲は身長170センチメートル、体重75キログラム、Cは身長175センチメートル、体重65キログラムであって体格差も大きくなく、甲はCの身体を直接押さえつけるなどしていない。したがって暴行はCの反抗を抑圧する程度に至っておらず、強盗罪ではなく窃盗罪の構成要件に該当する。
(2)窃盗罪の故意
甲はCのかばんを自己のかばんであると誤信していたから、「他人の財物」の認識を欠くのではないかが問題となる。これは違法性阻却事由に関する錯誤ではなく、構成要件該当事実の認識の問題である。
窃盗罪の保護法益については、242条が自己の財物であっても他人が占有するものであるときは他人の財物とみなすとしていることから、財物に対する占有そのものであると解する(占有説)。そして窃盗犯人の占有もここにいう占有に含まれる。
甲は、Cが甲所有のかばんを盗んで現に所持していると認識していたのであるから、他人が占有する財物の占有を侵害するという認識に欠けるところはない。よって窃盗罪の故意が認められる。
(3)傷害罪(204条)の構成要件該当性
甲がかばんの持ち手を強く引っ張る行為は、これを握るCの身体に対する有形力の行使でもあり暴行に当たる。Cはこの弾みで通路に手を付き、手の平を擦りむいて加療1週間を要する傷害を負っているから、傷害罪の構成要件に該当し、甲には暴行の認識もある。
(4)違法性阻却事由に関する錯誤
甲はCが甲のかばんを盗んだと誤信していたから、甲が認識した事実を前提とした場合に正当防衛又は自救行為が成立するかを検討する。
まず侵害の急迫性については、甲の認識上、Cは既に甲のかばんを待合室から持ち出し改札口を通過していたから、窃盗は既遂に達している。もっとも、窃盗の既遂時期と侵害の急迫性の終了時期は必ずしも一致せず、被害者が直ちに追跡して占有を回復し得る状況が継続している限り、財産に対する侵害は現在するものと評価できる。本件では、甲の認識上、持ち去りから約2分後、同一の駅構内の通路で甲がCに追い付いているのであって、時間的場所的に密接しているから、急迫不正の侵害が継続していたと認められる。したがって自救行為ではなく正当防衛の問題となる。
次に相当性については、甲はまず「待て、待て。」と呼び掛け、追い付いた後も「私のかばんを盗んだな。返してくれ。」「待て。」と述べて返還を求めており、Cが全く取り合わなかったために初めて実力行使に及んでいる。そしてその態様はかばんの持ち手をつかんで引っ張るというものにとどまり、財産的侵害を排除するために必要最小限度の手段といえる。よって甲の認識した事実を前提とすれば、やむを得ずにした行為に当たり相当性も認められる。
故意責任の本質は、違法性を基礎づける事実を認識しながらあえて行為に出た点に対する道義的非難にある。甲は正当防衛に当たる事実を認識していたのであるから、違法性を基礎づける事実の認識を欠き、責任故意が阻却される。したがって窃盗罪も傷害罪も成立しない。
(5)過失犯の検討
窃盗については過失犯の処罰規定がないから不可罰である。他方、傷害については、甲は、かばんが無くなっていたことと、同じブランド・色・大きさのかばんを持つCを見たという事情のみからCが盗んだと思い込んでおり、かばんの中身を確認するなどしてCのかばんが自己のものか確かめることも容易であったのに、これをせずに引っ張っている。同種のかばんは世上多数存在するのであるから、誤信には過失がある。よって過失傷害罪(209条1項)が成立する。
4 罪数
建造物侵入罪と新薬の書類についての窃盗罪は手段・結果の関係にあるから牽連犯(54条1項後段)となり、これと過失傷害罪は併合罪(45条前段)となる。
第2 乙の罪責
1 共同正犯か教唆犯か
乙は自ら実行行為を分担していないから、共謀共同正犯の成否が問題となる。共同正犯の処罰根拠は、相互の意思連絡に基づく相互利用補充関係のもとで他人の行為を自己の犯罪実現の手段として利用した点にあるから、実行行為を分担しなくても共同正犯が成立し得る(最大判昭和33年5月28日)。その要件は、①共謀、②共謀に基づく一部の者の実行行為、③正犯意思であり、正犯意思の有無は犯行の動機、役割の重要性、利益の帰属等を総合して、自己の犯罪として行ったといえるかにより判断する。
本件では、乙が甲に対し「是非、その書類を持ち出して私に下さい。」と自ら積極的に持ち掛け、ポケットマネーから300万円を支払い海外の支社長として迎え入れるという強い利益を提示して甲を動かしている。乙は書類を自社の商品開発に活用して将来自社の経営陣に加わることを企図しており、犯行の利益は専ら乙に帰属する。甲も「分かった。新薬の書類を年内に渡そう。」と応じており意思連絡が成立している。したがって乙は犯行を自己の犯罪として行ったといえ、正犯意思が認められる。よって教唆犯ではなく共同正犯となる。
2 因果性
共謀時に甲は新薬開発部長であったが、実行時には異動していた。もっとも甲は、乙が提示した300万円と転職という利益を得るため、乙に異動を告げないまま当初の約束どおり書類を持ち出したのであるから、乙の持ち掛けと甲の実行行為との間に心理的因果性は維持されている。
3 抽象的事実の錯誤
乙は、甲が業務上占有する書類を甲が領得するという業務上横領罪の事実を認識していたが、甲の実際の行為は窃盗罪に当たる。構成要件を異にする錯誤であるから、抽象的事実の錯誤として処理する。
故意責任の本質は、犯罪事実の認識により反対動機を形成し得たのにあえて行為に出た点に対する非難にあるから、認識した事実と発生した事実とが構成要件的に重なり合う限度で故意が認められる。重なり合いは、保護法益の同一性及び行為態様の類似性を基準に判断する。
業務上横領罪と窃盗罪は、いずれも他人の財物に対する所有権を保護法益とし、不法領得の意思に基づいて財物を自己の支配下に移す行為を処罰するものであり、占有侵害を伴うか否かの点で異なるにとどまる。したがって両罪は構成要件的に重なり合う。
重なり合いは軽い罪の限度で認められる。もっとも、乙は書類の占有者ではないから、仮に甲の行為が業務上横領罪に当たるとすれば、65条2項により乙には単純横領罪(252条1項)の刑が科されるべき地位にある。そこで比較すべきは窃盗罪と単純横領罪であり、法定刑は前者が10年以下の懲役又は50万円以下の罰金、後者が5年以下の懲役であるから、単純横領罪が軽い。
よって乙には、甲の窃盗罪との重なり合いが認められる単純横領罪の限度で故意が認められ、同罪の共同正犯(60条、252条1項)が成立する。
4 その余の行為
乙は甲の異動を知らず、甲が権限なく新薬開発部の部屋に立ち入ることを認識していないから、建造物侵入罪の共同正犯は成立しない。また、甲のCに対する行為は共謀の射程を全く外れるものであるから、乙は罪責を負わない。
第3 丙の罪責
1 甲のかばんに対する甲の占有
窃盗罪が成立するには財物が他人の占有に属することを要する。占有の有無は、財物に対する事実上の支配の有無を、占有の事実と占有の意思とを総合し社会通念に従って判断する。
甲は、切符を買うために新薬の書類のみが入ったかばんをベンチに置いたまま待合室を出たにすぎず、置いた場所を明確に認識して戻る意思を有していた。待合室の出入口と自動券売機とは直線距離で20メートル離れているにとどまり、甲が待合室を出た午前11時15分から丙が持ち去った同16分までは約1分である。待合室は四方がガラス張りで出入口は1か所であり、甲が待合室に入ってから丙が出るまでの間、待合室を利用した者は甲と丙のみであった。
自動券売機に向かって立つと待合室は見えないため現実の監視は及んでいないが、上記のとおり時間的場所的に極めて近接しており、甲の支配の及ぶ範囲内にあるといえる。よって甲の占有が認められ、かばんは「他人の財物」に当たる。丙がこれをベンチから抱えて待合室外に持ち出した行為は窃取に当たる。
2 不法領得の意思
窃盗罪の成立には、故意とは別に不法領得の意思、すなわち権利者を排除して他人の物を自己の所有物としてその経済的用法に従い利用し処分する意思が必要である(大判大正4年5月21日)。これは一時使用を不可罰とし、毀棄・隠匿罪と窃盗罪とを区別するための要件である。
丙は、かばんを交番に持ち込んで他人のかばんを勝手に持ってきた旨申し出れば逮捕されて留置施設で寒さをしのげると考えて持ち去り、現に直ちに交番に持参して警察官に渡している。かばん自体を使用する意思はなく、その経済的価値を享受し処分する意思も全くない。したがって利用処分意思を欠き、不法領得の意思は認められない。よって窃盗罪は成立しない。
3 器物損壊罪(261条)
「損壊」には物の効用を害する一切の行為が含まれ、隠匿もこれに当たる。しかし丙は、持ち去った直後に50メートル先の交番に赴き、警察官に対し「駅の待合室からかばんを盗んできました。」と告げてかばんを引き渡しており、甲が返還を受けることが容易な状態に置いている。かばんの効用を害する意思も結果も認められないから、「損壊」に当たらず器物損壊罪も成立しない。
よって丙に犯罪は成立しない。
4 自首
仮に丙に窃盗罪の成立を認める立場に立つ場合には、丙は犯行直後、捜査機関に発覚する前に自ら交番に出頭して自己の犯罪事実を申告しているから自首(42条1項)が成立し、刑の任意的減軽が認められる。
以上